イエスは生きておられる

 

      ルカによる福音書24章13~35節

             水田雅敏

 

イースター、おめでとうございます。神の祝福が皆さんにありますように。

イースター、おめでとうございます。神の祝福が皆さんにありますように。

今日の聖書の箇所はエマオへの途上の物語としてイースターの期節に繰り返し読まれる所です。ここには二人の弟子が登場しています。彼らはエルサレムからエマオという村に向かって歩んでいました。このエルサレムからエマオへ向かう道は、地図を見ると、東から西へ向かっています。彼らは西の方に向って歩いているのです。時は夕暮れです。ですから、西に沈む太陽に向かって歩いていることになります。

しかし、その歩みは明るく希望に満ちたものではありませんでした。17節に「二人は暗い顔をして立ち止まった」とあります。悲しそうな顔をしていたのです。なぜでしょうか。「イエスは生きておられる」というメッセージを頭でしか理解できなかったからだと思います。

復活ということについての知識は私たちもそれなりに持っています。けれども、知識として理解していることと私たちの現実の生活との間にはギャップがあります。ですから、「イエスは生きておられる」ということが知識であったり観念であったりする時には、それは私たちにとっては悲しみです。福音を知識としてしか受け取らないところには悲しみが生まれるのです。

では、そういう悲しみが喜びへと変えられることはあるのでしょうか。物語を読み進めていくと、二人の弟子が旅人と共に食卓に着く場面が出てきます。その時に彼らの目が開けて、それが復活のイエスであることが分かったと書かれています。知識ではなくて、復活のイエスとの具体的な出会いの中で、彼らは目が開かれたのです。食卓を共にするという出会いの中で、彼らの悲しみが喜びに変えられたのです。

私たちはしばしば信仰を知識として理解しようとします。もちろん、正しい信仰の理解

ということから考えれば、知識は大事です。それをおろそかにしてはならないと思います。しかし、信仰というのは私たちと私たちを超えたものとの出会いの経験なのだということをここから教えられます。

その時、私たちはどのようにしてそのお方に出会ったらいいのかと自ら探し求めようとします。しかし、ここでルカによる福音書が語っていることは、私たちが探し求めてどこかへ出かけて行く前に、復活のイエスの側から私たちに寄り添って歩んでおられるということです。探し求めるという私たちの行為に対して、むしろ復活のイエスの側が積極的に私たちに伴っておられるということです。

ですから、私たちがどんなに不信仰な状態にあっても、復活のイエスは私たちと共に歩んでくださいます。二人の弟子たちも不信仰でした。25節に「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と記されています。不信仰であればこそ、私たちはどこに何を求めたらよいのかとますますさ迷うわけですが、その不信仰にもかかわらず、そのさ迷う中で、主イエスご自身が私たちに伴ってくださるのです。それがエマオへの旅なのです。

エマオへの途上で輝いたあの西の光は、私たちをも照らしているのです