「神に栄光を帰す」       

                             コリントの信徒への手紙二41315

                                                水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の4章の13節から15節です。

前回学びました4章の7節でパウロは次のように言っています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」

「宝」とありますが、これは一言で言えば信仰のことです。土の器でしかない私たちに信仰という宝が納められているというのです。

信仰とは何でしょうか。信仰というのはただ神を信じているということではありません。信仰とは自分が救われることです。神がイエス・キリストを通して救いを与えてくださったのです。私たちには何の資格もないのに、賜物として与えてくださったのです。そうであるなら、信仰は私たちにとって一番大切なものであり、信仰生活は何よりも感謝の生活でなければならないはずです。

ところが、信仰に入ったことを何か一つの考えを持つようになったとしか思わない人がいます。人はそれぞれ、人生に対する自分の考えを持って暮らしています。その中で、たまたま私はキリスト教という宗教に入ったというのであれば、信仰の喜びはあまり感じられないでしょう。

信仰生活というのはそういうことではありません。神が自分を救ってくださったことが分かったということです。自分は救われているという事実です。その事実に対して感謝しているということです。だから、喜びが溢れてきます。それを語らずにはいられなくなります。

パウロは神から与えられた信仰を熱心に宣べ伝えた人でした。そのような力はどこから出てきたのでしょうか。パウロの性質でしょうか。彼の情熱が一般の人と違ったからでしょうか。そうではありません。救われたというそのことのゆえにパウロは語ったのです。その事実のゆえに沈黙していることができなかったのです。

その自分の心境を正しく伝えるものとして、今日の聖書でパウロは詩編の言葉を用いています。4章の13節にこうあります。「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。」

「わたしは信じた」とありますが、これは先ほどの言葉で言えば「わたしは救われた」ということです。ただ何かを信じたということとは違います。自分が罪と死の生活から救い出されて新しく生きる者になったということです。

「霊」とありますが、これは「力」と言ってもよいと思います。信仰を持つと神から力が与えられます。だから、どうしても語らないではいられなくなるのです。

信仰のあるところにはいつでもそれを表すということがあります。それは口だけではありません。態度にも現れてきます。信仰は生きて働くものです。つまり、信仰自身が叫び出すのです。だから、信仰を持っている者が沈黙していることはあり得ないのです。

では、信仰の言葉として私たちは何を語ったらよいのでしょうか。それは世間の人々が求めているようなことでしょうか。例えば、生きがいとか、人生の諸問題とか、そういうことでしょうか。そういうことが語られることも間違いではありません。しかし、今日の聖書にはそういうこととは全く違ったもののように思われることが書かれています。

14節にこうあります。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」

これは信仰を宣べ伝えることについての理由です。わたしはこういう信仰を持っている、だから語るのだというのです。

一見しますと、このことと一般の人々が聞きたいと願っていることとの間には大きな隔たりがあるように見えます。イエス・キリストが復活させられたことや神の御前に立つということと、人々が知りたいと思うような事柄と、どういう関係があるというのでしょうか。それはまさにパンを求める者に石を与えようとすることになるのではないでしょうか。

そうではありません。私たちもはじめからイエス・キリストが復活させられたことを知りたいと思っていたわけではありません。人々と同じように、身の回りのあれこれの問題について解決を求めたのです。しかし、それに対して与えられたものは何だったでしょうか。それはイエス・キリストの十字架の死と復活の福音でした。私たちに何の関わりもないように思われることを突きつけられたのです。

人々が求めているものは間違いではありません。しかし、それはまだ表面的なものであって、人々は自分で求めながら何を求めなければならないかが本当には分かっていないのです。人間は自分の生活の幸福を求め、平安を願います。しかし、その求めている幸福や平安は、実は人間の罪の問題と深く関わっているのです。そのことを解決しなければ、ただ上辺だけのことになってしまうのです。

教会の伝道はイエス・キリストの復活を宣べ伝えることから始まりました。あの当時にあっても人間が求めていたものは今と変わることはありませんでした。それはやはり人間の幸福として一般に考えられていたことでした。使徒たちがそのことを知らなかったはずはないのです。それなのに、彼らはあえてイエス・キリストの復活を語ったのです。それはこれをほかにしては人間にとって救いはあり得ないと信じていたからです。

なぜ、そうなのでしょうか。救いは罪からの救いです。罪からの救いはまた死からの救いです。死からの救いは人間の最大の願いです。なぜなら、どのような幸福も死によって滅ぼされるからです。しかも、死に勝つ道は復活しかありません。私たちの復活はイエス・キリストの復活によって保証されるものです。つまり、イエス・キリストの復活について語られることは救いの土台なのです。

15節にこうあります。「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」

「豊かに恵みを受け」とありますが、豊かに恵みが与えられるのはイエス・キリストの復活が私たちのためであることが信じられる時です。

その恵みの生活には大切なことが二つあります。

一つは「感謝の念に満ち」ることです。イエス・キリストの復活が私たちのためであることに確信を持つとき、感謝の思いに満ち溢れるのです。

もう一つは「神に栄光を帰す」ということです。感謝の思いは、イエス・キリストの復活が私たちのためであり、神に栄光を帰すようになるためのものであることが分かったときに、さらに確かなものとなります。感謝は自分が得をしたときのためにあると思っている限り、神に栄光を帰すことはできません。信仰は神に栄光を帰すことなくしてはあり得ないのです。

今日の話は土の器から始まって神の栄光に至りました。土の器と神の栄光とは天と地ほどに離れています。しかし、これを結ぶものがあります。それが救いです。恵みです。イエス・キリストです。