「遣わされた者」

                       ヨハネによる福音書9112

                                                   水田 雅敏 

 

新しい年を皆さんとご一緒に迎えることができましたことを、神に感謝いたします。

今日からヨハネによる福音書の9章に入ります。

9章の1節から12節に書かれていること、それは生まれつき目の見えない人の目を開いてくださった主イエスの御業です。

生まれつき目の見えない人の目が開かれるというのは、喜ばしい出来事です。起こりようもないことが起こったという、驚くべき出来事です。みんながその人を祝福して、「よかったね」と言ってよいことです。ところが、話はまるで逆になってしまいます。

このあと読み進めていくと、ユダヤ人たちは繰り返しこの人に詰め寄っては質問し、遂に9章の34節に至って、「彼を外に追い出した」といいます。自分たちの中から追放した、いわば村八分にしてしまったのです。

どうしてこんなことが起きたのでしょうか。

ユダヤ人たちは、「この人は世にも稀な出来事を体験した」と言って、これを羨んだり妬んだりして追放したのではありません。問題は、この人を誰が癒したかということです。

この人は初めは、自分を癒してくださった方がどこの誰かもよく分かりませんでした。しかし、だんだん事柄が分かってきて、自分を癒してくださった方は主イエスだということを言い表しました。そこでユダヤ人たちは、「この癒しの業を受け入れることは、主イエスを受け入れることだ」と思いました。つまり、この人を自分たちの中から追放するということは、主イエスを追放するということを意味したのです。

ユダヤ人たちはどうして主イエスを追放するのでしょうか。

彼らは分からなかったのです。彼らには分からないことが起こったのです。そういう者は排除してしまうのです。闇が支配しているのです。闇が濃くなっているのです。そして、その闇の外に、私たちは立ってはいません。

9章で一つの頂点になっている言葉があります。39節です。「イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』」

これは明らかに裁きの言葉です。特に、「自分には信仰がある」と思い込んでいる者たちに対する裁きの言葉です。「神のことはよく見える」と思っている者のその見えない姿に対する裁きの言葉です。

どうしてこういうことが起こったのでしょうか。

1節から2節にこうあります。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』」

「ラビ」とありますが、これは「律法の教師」という意味です。「律法の教師であれば説明ができるでしょう。この人はなぜこのような状態にあるのですか。本人が罪を犯したからですか。それとも両親が罪を犯したからですか」というのです。

弟子たちは他人事だからこんな質問をするのです。この人が、またこの人の両親が、この弟子たちの質問を聞いていたら、どんなに辛く悲しい思いをしたことでしょうか。

3節から4節にこうあります「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。』」

4節に「わたしたち」とあります。なぜ、主イエスは「わたしたち」と言われたのでしょうか。「十字架に上げられるまで、わたしは神の仕事を一生懸命にやらなければならない。この人のためにもわたしは働かなければならない」と言われたのであれば、よく分かります。しかし、主イエスは「わたしたち」と言われました。

ある人が、この『わたしたち』の中にはヨハネによる福音書を生んだ教会の人たちも含まれているといいます。もちろん、この時、主イエスの傍にいた弟子たちもその中に入っています。主イエスはご自分の業を独り占めなさらないのです。むしろその御業の中に、弟子たちを誘い、弟子たちに続く私たち、ここにいる私たちを招いておられるのです。

「あなたがたは、この人がどうしてこのような状態にあるのか、と問うのか。他人事のように因果関係によって説明がついたらどうだというのか。問題は、そういうことではないだろう。問題は、この人に神の御業が起こるかどうかということだろう。しかも、それをみんなで見物しようということではない。その神の御業のために、わたしたちは一緒に働こうではないか。わたしを遣わしてくださった神の御業の中に、あなたがたも加わったらよいではないか。」

この主イエスの招きに応じたところで初めて見えてくるものがあります。そこでは当然、主イエスのまなざしと私たちのまなざしが一つになります。そのまなざしの中に何よりも見えてくるもの、それは私たちの闇の姿です。私たちが闇の中にあるということです。私たちが闇の者だったから、この人に対しても、主イエスのようなまなざしを持つことができなかった、主のまなざしもってこの人を見ることができなかった、ということが見えてくるのです。

しかし、主イエスに招かれて新しいまなざしで見始める時、私たちの目は開かれてきます。

5節で主イエスはこう言っておられます。。「わたしは、世にいる間、世の光である。」

主イエスは十字架において、闇の深さの中に、その最も深いところに、立ってくださいました。そして、その闇の中から神によって引き出される復活の勝利を体験なさいました。その闇から光への業の中に、主イエスは私たちを立たせてくださるのです。

6節にこうあります。「こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。」

天地を創造された時、神は土をこねるようにして人間を造ってくださいました。それと同じように、主イエスは新しい業を始めておられるのです。

主イエスはこの人に「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。

「シロアム」というのは、7節に書かれているように「遣わされた者」という意味の言葉です。

「遣わされた者」。ある人は、これは主イエスご自身ことだといいます。主イエスはご自身の恵みの中に生き続けるように、この人を導いてくださったというのです。

しかし、多くの人は、遣わされて主イエスと同じ仕事をしている弟子たちの姿を、そして彼らに続く私たちの姿を、ここに見ます。「目に泥を塗られてシロアムの池に行くこの人は、洗礼を受ける人の姿を表している」というのです。

9節には、「この人は物乞いをしていた男なのかどうか分からない」と言って人々が右往左往していた時に、本人が答えた言葉が記されています。「わたしがそうなのです」。

この言葉は8章の58節で、主イエスが「わたしはある」と言われたその言葉と同じです。まるで主イエスの言葉をこの人がそこで聞いていたかのように繰り返したのです。

この人は、「わたしはある。わたしはわたしだ」と言えるようになりました。恐れなく言えることができるようになりました。

人々が「この人が」と言って議論している時に、「いや、わたしは別の人間です」と言って逃げることもできたはずです。「面倒なことには巻き込まれたくない」と言うこともできたはずです。しかし、この人は、ここで開かれた目をもって、明るいまなざしで言うのです。「わたしがその当人です。わたしはわたしとしてここにあります」。神の御業が現れたのです。神の栄光が現れたのです。この人は自らの存在を受け入れることができたのです。「わたしはわたしだ。わたしはわたしとしてこのように生きる。神の御業の中で生きる。主イエスの御業の中で生きる」。

肉眼が見えていても、呟くことの多い私たちです。自分の健康の不確かさに嘆き続ける私たちです。肉体の健康が確かであっても、心の力が萎えていることを悩み続ける私たちです。しかし、誰の因果がそこに現れたわけでもありません。神の御業と栄光は、そこに現れます。そこにこそ現れます。主イエスがご自身の存在をかけてこの約束をしてくださいます。私たちは、その中に立ちます。神に遣わされた者として生きる喜びの中にあり続けます。

 

この光栄を思い、私たちは新しい年も共に励まし合って、主の光の業を担い続けていきたいと思います。