「喜びの王」

             ヘブライ人への手紙1514

                                 水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙の1章の5節から14節です。

ここで私たちがまず注目したいのは9節です。9節には「あなたの神は、喜びの油を…あなたに注いだ」という表現があります。

これは旧約聖書の詩編の45篇の言葉で王の結婚式の時に歌われたものと考えられています。

婚宴は喜びの宴です。「あなたは神から喜びの油を注がれて王として立てられる」、そのように歌った歌を、この手紙の著者はイエス・キリストに対して語られた言葉として聞き直しているのです。神がイエス・キリストを喜びの王としてわれわれに与えてくださった、キリストは喜びの王だというのです。

クリスマスというのはまさに喜びの祭りです。喜びの王が来てくださったからです。

この手紙の著者はそのような喜びの王について語ることを自分の喜びとしているのです。

喜びの王が来られる、それを聞くだけで私たちにも思いが溢れるところがあります。

しかし、この9節には私たちがすんなり受け取ることのできない言葉も書かれています。9節の始めにこうあります。「あなたは義を愛し、不法を憎んだ。」

今私たちが礼拝しているイエス・キリストは義を愛し、不法を憎む方だというのです。

そうだとすれば、私たちのうちのどれだけの者がイエス・キリストの憎しみに耐えることができるでしょうか。イエス・キリストの前に自分の真実の姿が明らかにされるのです。

そこに見えてくる私たちの姿は自分中心の心に生きている姿です。そこから生まれる罪の虜になっています。私たちは結局、そういう自分であることを認めざるを得ないのではないでしょうか。その時、自分はイエス・キリストに憎まれないで済む全くの義しい人だと言うことができるでしょうか。

ところが、この手紙は、「それゆえ」、イエス・キリストは、喜びの王とされたというのです。

「それゆえ」というのは何を説明しているのでしょうか。それゆえ、あなたは裁きの王としてここに立てられる、というのであるならば筋が通るかもしれません。けれども、そのように裁きの王が立った時には私たちは喜んではいられなくなります。むしろ、礼拝に出ないほうがよっぽど気が休まるかもしれません。それなのに、なぜ私たちはここへ来ることができるのでしょうか。

そこで注目したいのはこの手紙が4章の14節以下に語っていることです。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

16節に「大胆に」という言葉があります。これは「遠慮することなく」ということです。遠慮することなく、われわれは礼拝に出ようではないか、大胆にイエス・キリストの前に立とうではないかというのです。

なぜ、そうすることができるのでしょうか。イエス・・キリストが憐れみをもって、同情をもって私たちを迎えてくださるからです。

この「同情」というのは「苦しみを、共に担う」という意味です。私たちに身を合わせ、一つになってくださるイエス・キリストがここで私たちのために執り成していてくださるのです。私たちを神の前に差し出してくださるのです。

今日の聖書に戻りますけれども、9節には「あなたの仲間に注ぐよりも多く」と比較の言葉が語られています。

この比べられている「あなたの仲間」、イエス・キリストの仲間とは誰でしょうか。

多くの人は、これは天使だと説明しています。

前回学んだ4節に「御子は、天使たちより優れた者となられました」という言葉があります。この話が続いていると読むのです。御子イエス・キリストは天使より遥かに優れている、天使などは及ばないほどに喜びに溢れた王になっておられる。

しかし、ある人は別の理解をしています。「あなたの仲間」、イエス・キリストの仲間とは私たちキリスト者のことではないかというのです。私たちも聖霊によって油を注がれた者ではないか、私たちにも喜びの油が注がれているのではないかというのです。

何のためでしょうか。イエス・キリストの喜びを持ち運ぶためです。

14節にこうあります。「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。」

私たちも天使になるのです。ちょうど、小さな子供が親に言われてどこかにお使いに出ていく時に、何となく晴れがましいような気持ちで、自分もお手伝いができる、代わりに出かけることができるという気分になるのと同じ思いで、私たちも神のお使いになるのです。福音の喜びを伝える器になるのです。

なぜ、この手紙は天使についてこのように延々と語っているのでしょうか。

ある人がこう言っています。「この手紙を読んだ人たちは自分たちが礼拝をする時に、いつも天使と一緒にイエス・キリストを拝んでいると思っていたのではないか。」

私たちはここで私たちだけで礼拝をしているのではありません。天使が一緒に礼拝していてくれるのです。見えない形で私たちを支えていてくれるのです。

それだけではありません。この手紙は11章でアベルの物語から始まって、旧約聖書が語る信仰者について次々と語ってきて、それを語り終えた12章の1節にこう語っています。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。

われわれはおびただしい信仰の証人たちに囲まれている、モーセが、アブラハムが、アベルがわれわれを囲んでいてくれる、だから重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、与えられている信仰の道のりを忍耐強く走り抜こうではないかというのです。

 

イエス・キリストは今、天にあって私たちの礼拝を受けておられます。私たちはまた、お互いにとって天使です。私たちはお互いのために助け合って、イエス・キリストを仰ごうと慰め合い、励まし合うことができる天使の群れをここに造ることを許されているのです。この幸いの中に私たちは今あるのです。大変感謝すべきことだと思います。