「常に生きておられる方」

              ヘブライ人への手紙72025

                                  水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所で頂点になっている言葉、私たちが心に刻まずにおれない言葉は25節です。「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」

このようなことを読むと、私たちが願わずにおれないのは、「神に近づきたい」ということです。「神に近づく人たち」とここで呼ばれている人に自分もなりたいということです。

「御自分を通して」とあります。主イエスを通して神に近づくのです。

それはどういうことでしょうか。

その一つは主イエスの名を呼ぶことです。例えば、家族のために台所に立ちながら、あるいは職場にありながら、あるいは夜寝る時に、「主イエスよ」と口に出して、あるいは心の中で呼ぶのです。その時に私たちはもう神に近づいています。「近づいている」という確信を持つことができます。

このヘブライ人への手紙は何か難しいことを言っているようでありますけれども、そのように私たちに、主イエスによって神に近づく道をよく知ってもらいたい、という祈りをもって書かれた手紙です。あなたは主イエスの名を呼んでいればいい、そうしたら神に近づいているというのです。

しかも、主イエスという方は私たちを完全に救うことがおできになる方です。われわれはこの完全な救いに与っているのであって、それ以上に何もおねだりする必要もないのだというのです。

そのような慰めの言葉を私たちに、迫害のもとで信仰生活に疲れを覚えている人たちに語りかけているのです。

私たちが疲れを覚えるということは私たちが弱い人間であることを意味します。弱い人間であるということは私たちが死ぬべき者であることを意味します。

この手紙の著者がじっと見つめているのも、やはり一つは死です。

「この方は常に生きていて」とあります。そして、その前の24節に「イエスは永遠に生きている」とあります。

これらは私たち人間が死ぬべき者であることを確認する言葉でもあります。

この手紙を読む者たちは迫害に耐えて生きているうちに疲れ果ててしまい、中には「もう死にたい」と思う人も出てきたのかもしれません。将来が光り輝く希望でなくなってしまうのです。

そのときに改めて確認するのです。「われわれは死ぬ。しかし、主イエスは常に生きておられる。今生きておられる。そしてこのあとも生き続けられる。」

もちろん、この手紙の著者は、われわれの営みには意味がないと言っているのではありません。

いつの日か読むことになりますけれども、この手紙の最も中心的な考え方を示すものとしてしばしば引用される言葉を、ここで読んでおきたいと思います。それは13章の8節です。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」

この言葉はその前の7節のこういう言葉に続いています。「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」

指導者たちが今次々と死んでいきます。殉教の死を遂げた人もあると思います。病でその生涯を終えた人もあると思います。その人たちの終わりの姿をよく見てほしい、そしてその信仰を見倣ってほしいというのです。

それは「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」と信じる信仰です。「あなたがたの指導者たちは生きている間だけではなくて、その死の姿においてもそう語ってくれているではないか。いつでも主イエスの名を呼び続けて神に近づいて死んだ者たち、それがあなたがたの指導者だった。そしてわれわれもその一人だ」というのです。

ですから、同じ13章の18節以下にはこういう言葉が語られています。「わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください。」

そう言って、20節以下に、「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が…」と主イエスの祝福を書き記すのです。

祈り合うのです。お互いに執り成し合うのです。祈りをもって支え合い、励まし合うのです。常に変わらずに生きておられる主イエスが私たちのために執り成しておられるからです。

7章に戻りますけれども、この主イエスの確かさを、この手紙の著者は神の誓いによる確かさとして語っています。

21節にこうあります。「この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方に対してこう言われました。『主はこう誓われ、その御心を変えられることはない。〈あなたこそ、永遠に祭司である。〉』」

ここに引用されている言葉は旧約聖書の詩編の110編です。メルキゼデクという祭司のように立てられる王についての言葉です。

「ユダヤ人の歴史の中にポツンと姿を現して、またスッと姿を消した、謎に包まれているように思われるメルキゼデク、祭司にして王であるメルキゼデクに倣って、主イエスが既にここに来ておられる。このメルキゼデクについて告げられた神の言葉は主イエスにおいてこそ成就している。それは神が、この者は永遠の祭司だとする御自身の誓いによって、確かにされていることだ」というのです。

誓うとは命を懸けるということです。昔から誓いは様々な形で語られましたけれども、その誓いの最も基本的なものは、この誓いをもし自分が破るならば自分は殺されてもよいということです。つまり命を懸けて誓うのです。

ところが、ある本にこういうことが書かれていました。聖書にも、ユダヤの人々の信仰の歴史においても、命を懸けて誓うという言葉はないそうです。なぜかと言うと、自分の命は自分のものではないと神を信じる者は知っていたからだというのです。

私たちの命は私たちのものではありません。神のものです。それなのにその命を懸けて誓うのは不信仰なこと、傲慢なことになる、だからそのように誓うことはなかったというのです。

確かにその通りです。神御自身が私たちの命の主であられます。その神が誓っておられるのです。

22節にこうあります。「このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。」

これはどういう意味でしょうか。

私たちはこの手紙をコツコツと続けて読んでいますから、時々、前のほうや後ろのほうを読みながら全体の関連の中でこの手紙のことを考えてみなければなりません。

例えば、先ほどから死について語り、しかもこの死に向かい合う主イエスの永遠の命を今ここで語り聞かせられるときに、私たちが同時に覚えていなければならないのは、主イエスもまた死なれた方だということです。

2章においてこの手紙がまず語ったのは、主イエスは死んでくださったということです。

2章の15節においては、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるため、御自身も死んでくださったと語りました。

死んで、しかも、今永遠に生きておられるということは、先ほど読んだ13章の最後の祝福が「わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が」と語っているように、主イエスの激しい戦いと勝利の歩みによって支えられる真理です。

主イエスは復活させられました。そのようにして死から復活への命の戦いを貫かれ、さらに天に昇って、今天にあって、神の右に座して、私たちのために執り成していてくださいます。こんなに確かな保証はないと、この手紙の著者は言うのです。

主イエスは常に生きておられます。永遠に生きておられます。私たちのために。

 

この主イエスが共にいてくださる確かさに支えられ、私たちも日々の生活の中で主イエスの名を呼ぶことによって、隣人を愛し、兄弟姉妹のために祈り続ける歩みを造っていくことを何にもまさる慰めとし、何にもまさる喜びとしたいと思います。