「ラザロ、出て来なさい」

                                               ヨハネによる福音書113844

                                                                                                                 水田 雅敏 

 

私たちはこれまでヨハネによる福音書の11章に記されている「ラザロの復活」の記事を読んできましたが、今日はその締め括りにあたる箇所です。

38節に「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」とあります。

主イエスはいったい何に憤りを覚えられたのでしょうか。

33節にも「イエスは…心に憤りを覚え、興奮して、言われた」とありました。

人々の不信仰に対してということも考えられますが、それよりも、マリアを初めとして、そのように人を悲しませている力、死の力に対してでしょう。死の力が圧倒的な力をもって私たち人間を脅かしている、その力に対して主イエスは憤りを覚えられたのです。

主イエスはマリアが泣いているのを見て、主ご自身も涙を流されました。これは「もらい泣き」というレベルを遥かに超えています。使徒パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と言いましたが、主イエスは真実の人、真実の隣人として、私たち人間の傍らに立たれるのです。

私たちは不条理な死に対しては、怒りや憤りを覚えることがありますが、多くの場合、その気持ちさえ起こらない、諦めやどうしようもない無力感に襲われます。そうした中で、主イエスは一人この死の力に対して憤りをあらわにされたのです。

それは無駄な抵抗としての憤りではありません。最後の抵抗としての憤りでもありません。私たち人間のそのようなやるせない思いを代表しつつ、あるいはそれさえも起こらない無力感を叱責しつつ、唯一、死の力に対抗できるお方として、いや、その死の力を超える力と権威を持ったお方として、主イエスは今、墓の前に立たれるのです。

主イエスが墓を塞いでいる石を取りのけなさいと言われると、マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。

この言葉には「主よ、いったい何をなさろうというのですか」という思いが表われています。マルタはこの直前に主イエスへの信仰を明らかにしたばかりなのに、これから主がしようとしていることが分からないのです。

主イエスはそのようなマルタに、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われました。

信じる時に初めて神の栄光を見ることができると言われるのです。

同じことを経験していても、そこに信仰がなければ、神の栄光を見ることはできません。同じ出来事を目の当たりにしても、そこに神のメッセージを読み取ることができるかどうか、それは私たちの信仰にかかっているのです。

もちろん、私たちの信仰があろうとなかろうと、神の業はなされていきます。神の業は私たちの信仰に左右されるものではありません。それは素晴らしいことであり、だからこそ私たちは力を得るのです。

しかし、それだけでは私たちの人生は変わりません。それが変わるとすれば、私たちが信仰をもってそれを受け入れる時です。その目で見始める時、謎が解けるように物事が見え始めるのです。神の思い、主イエスの思いが伝わってくるのです。

テレビを見ていると、いろんな形のクイズ番組があります。以前、こんなクイズ番組を見たことがあります。その番組では、回答者が答えが分かっても、みんなの前で答えるのではなく、電話ボックスのような所で、一人ずつそっと伝えます。正解だったら別の部屋で待機します。そして、ほかの人がまだ分からないでいるのを、もどかしそうに、あるいは面白そうに見ているのです。

それを見ながら、「ちょっと信仰の世界に似ているかな」と思いました。

謎が解けた人にとっては何でもないことなのです。しかし、分からない人には分からないのです。頭がいいから分かるというわけではありません。発想の転換のようなものです。今まで平面でしか見なかったものを、上から見てみると、「ああ、何だ、そういうことか」と思うのです。あるいは反対側から見てみると分かるのです。そうすると誰でも分かることなのです。分からない人は、それができないために、あるいはしようとしないために、もがいているのです。でも、一度分かれば、「何であんなことが分からなかったのか」と思うのです。

信仰の世界もそういう面があるのではないでしょうか。それまでは抵抗していたのに、それを受け入れると、たちまち謎が解けるように見えてくるのです。

そのように、信じることができないで、その手前でもがいている人々のためにも、主イエスは神の業をなしてくださいます。

主イエスは大声で叫ばれました。「ラザロ、出てきなさい」。

主イエスは、その声が、深く陰府で眠っているラザロに届くように、そして、そこにいた全ての人の心の奥底に届くように、大きな声で叫ばれました。その声にはあの「憤り」が込められていました。あの「涙」が込められていました。

すると、ラザロが墓から出てきました。復活したのです。

このあとヨハネによる福音書は、「イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた」という主イエスの死からの解放の言葉を書いてこの物語を閉じています。

これまでの物語の書き方が非常に丁寧だったのに反して、ここではスパッと終わっているので、あとになって後日談を考える人々がいました。「このあとラザロは、どうしたのだろう」というのです。

ある人は、「墓から出て来たラザロは、きっとぼやいたのではないか」と言います。「墓から呼び出されたことは呼び出されたけれども、どうせまたわたしは死ななければならない」。

その二度目の死を迎えるまでの間に、ラザロはいろいろな体験をします。「あの時、死んでいたほうがよっぽどよかった。そうしたら、こんな嫌な思いはしなかっただろう。こんなに辛いことを経験しないで済んだだろう」。そのようなぼやき、つぶやきがあったのではないかというのです。

皆さんもいろいろ想像なさったらよいかと思いますが。

しかし、ここで私たちが、どうしても考えざるを得ないこと、どうしても思い浮かべざるを得ないことがあります。

それは、これから幾日も経たずにラザロは、自分を墓から呼び出してくださった主イエスが殺されるということを聞かなければならなかったということです。もしかすると十字架を取り囲む人々の中で、あるいは十字架の主イエスを見つめる女たちの傍らで、それを見ていたかもしれません。そして、それに続いて「主イエスが復活された」という知らせを聞かされたかもしれません。さらに、想像を膨らませれば、復活した主イエスがラザロを訪ねてくださったかもしれません。

ラザロは復活しましたが、再び死にます。しかし、その時のラザロの死は、主イエスの復活を信じる者としての死であったことは確かであろうと思います。

主イエスを信じる者としての死、それはまことの命、永遠の命の始まりです。

主イエスはマルタに向かってこう言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

また、ヨハネによる福音書はこう書いています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

この言葉に、「アーメン。信じます」と答える時、肉体も魂も全て新しくされます。この祝福の中へと、今、私たちは招かれているのです。