「その子をイエスと名付けなさい」

                     マタイによる福音書11825節 

                                                 水田 雅敏

 

クリスマス、おめでとうございます。皆さんに神の祝福がありますように。

今日の聖書の箇所はマタイによる福音書の1章の18節から25節です。

この箇所でまず注目したいのは、主の天使がヨセフに、マリアから生まれる男の子を「イエスと名付けなさい」と告げたことです。

21節にこうあります。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

「イエス」はヘブル語で言い表されると「ヨシュア」になります。それは「神は救い」という意味です。神はイエスを通して罪の中にある人間を救う業を始めようとしておられると天使は告げたのです。

罪は分断します。神と人とを分断し、人と人とを分断します。罪はまた自分の中にも分断を生じさせ、本来あるべき姿から人を遠ざけてしまいます。人の孤独や孤立がそこから生じ、対立や敵対関係が生まれ、交わりを破綻させてしまいます。人間はそのような罪の中に生きています。それゆえに私たちには不安があり、恐れがあり、絶望があります。また他者への憎しみや攻撃の思いがあります。

私たちがそのことを知る以前に神はそのことを御存じであり、御心を痛めておられます。そして、どうにかして人を覆っているこの罪を取り除こうとして御子イエスをこの世にお遣わしになりました。そのことが「イエス」という名、そして「この子は自分の民を罪から救うからである」との告知の中に込められているのです。

神がイエスを通して私たちの世界に、また一人一人の人生の中に介入して来られるとき、私たちの心がかき乱されることがあります。それまでの生活が破れることがあります。神の前における自分の真の姿を知らされて、その罪のゆえに自分自身への絶望を味わうことさえあります。イエスを知ることはそういう一面を持っています。

しかし、イエスを知ることはそれで終わることはありません。そのような罪の中にある私たち一人一人を神は御自身と結びつけるために御子を送られたのだ、イエスはこの私を罪から救うために私のところに来てくださったのだ、ということにまで思いが深められるとき、私たちの心の暗さは明るさへと変えられ、光へと変えられます。混乱は平安へと変えられます。

「イエス」という名には神がこのような私をも御心にかけてくださっているとの事実が秘められています。そのことをイエスの誕生の中に見ることが、私たちがクリスマスを迎えることの意味です。

ある人がこう言っています。「神は人間を愛してくださる。私たちの一人一人を、あたかも私たちのただ一人だけを、すなわちこの私だけを愛されるように愛してくださる。」

私たちはイエスを自分のための救い主として捉えてよいのです。誤解を恐れずに言うならばイエスを独り占めしてよいのです。そして、この方によって自分の生と死のすべてが支えられていることを知ることができたとき、私たちはイエスを独り占めすることから解き放たれて、私たちすべてのための救い主として人々にイエスを知らせる者へと変えられていきます。神は御子イエスを通して真剣に私たち人間に関わってくださる、そのことが明らかにされるのがクリスマスの出来事です。

そのことは続いて「インマヌエル」という言葉を通していっそう明らかにされます。

22節から23節にこうあります。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

ここで引用されているのはイザヤ書の7章の14節の言葉です。この言葉が語られた時代的な背景を少しだけ振り返ってみましょう。

紀元前8世紀の半ば、南王国ユダの王アハズは敵の攻撃の恐怖にさらされていました。アハズはユダの国を守るためにアッシリアの国に助けを求めようとしていました。そういう中で、預言者イザヤはアハズに「他の国に助けを求めるのではなく、神に信頼せよ」と説得を続けました。しかし、遂にアハズはアッシリアに助けを求める決心をしてしまいます。そのときイザヤは、あるおとめが身ごもって男の子を産む、その子が成長する前にアハズとユダの国は滅びてしまうとの預言をします。なぜなら、その子の誕生は、神がアハズの側におられるのではなくて、神に信頼する者の側におられるしるしだからだというのです。イザヤは「インマヌエル」という言葉を「神は、神に信頼しないアハズの側にはおられず、少数ではあっても神に信頼を持つ者の側にいてくださる」という意味で、アハズに対する裁きの言葉として用いているのです。

しかし、福音書記者マタイは同じ言葉を、絶望の預言としてではなく、希望の預言として捉え直しました。神が御子イエスをこの世に遣わされることは、神がなおわれわれ人間を見捨ててはおられず、われわれと共にいてくださろうとしておられることの現れだと受けとめたのです。そして、御子イエスをそのような神の意志の究極的な現れとして信じることの中に私たちの救いと希望と平安があることを告げ知らせようとしているのです。

ですから「インマヌエル」というのは、イエスの別の名前というのではなく、イエスを通して神が私たちに関わってくださるときの罪からの救いと並ぶ、もう一つの内容を言い表しているものです。もう一つの内容とは「神は私たちと共にいてくださる」ということです。

御子イエスを遣わされた神は、一つの場所に固定された存在ではなく、動きのある存在であられます。「神は我々と共におられる」という言葉の「我々」の中に私たちも含まれているのです。私たちは誰一人としてこの「我々」と呼ばれる者の中から自分を除外する必要はないのです。いや、その必要がないどころか、私たち一人一人が、すべての者が、イエスを通して「神は私と共にいてくださる」との告白と確信へと招かれているのです。

私たちが必死になって神と共にいようと努めなければならないのではありません。神が逃げ出してしまわれないように私たちのほうから探し回らなければならないのではありません。逆に、神が、御子イエスにおいて私たちに近づき、私たちと共にいてくださり、私たちを捕らえ続けてくださっているのです。

「共におられる」ということは一時的な、かりそめのことではありません。それは継続的なことであり、私たちの全生涯に渡ることであり、さらには死のあとにおいても続く、神の永遠の真実の約束なのです。

私たちの神に対する経験や実感には両極端の二つがあります。一つは、神は本当に私たちと共に、あるいはこの私と共にいてくださる、との経験や実感です。そのとき私たちは「インマヌエル」ということの意味がよく分かり、心から告白できる者とされます。もう一つは、これとは反対に、神が私たちと共にいてくださるとはどうしても信じられない、神が私と共にいてくださるとは真実のこととは思えないという苦悩に満ちた経験と問いです。私たちの人生においてはどちらも経験する事柄です。神は本当に私と共にいてくださると歓喜に満ちた時を持つことができることもあれば、神はいったいどこにおられるのかと苦しみの叫びを挙げるほかない時もあります。

しかし、詩編の139篇の詩人は次のように歌っています。詩編の139篇の7節から10節にこうあります。「どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」

私たちの感覚では神が共にいてくださるとは到底思えない時にも、神は共にいてくださる、その約束は真実で変わることはないと歌われています。

この約束とは異なると思える現実が目の前にあったとしても、それにもかかわらずインマヌエルなる神を信じる信仰に生きる、それは私たちに与えられた大いなる恵みです。この恵みをいくら強調しても強調し過ぎることはないでしょう。

厚い雲に覆われて、輝く星が私たちの目には見えなくても、雲の上で変わることのない光を放っている星ように、苦しみとうめきと悲しみの中で神が見えなくなっても、神は私たちと共にいてくださいます。

 

クリスマスはそのことを確認する時であり、その確信を新しくする時なのです。