「慰めと喜び」

        コリントの信徒への手紙二 724節  

                水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の7章の2節から4節です。

2節の前半でパウロはこう言っています。「わたしたちに心を開いてください。」

これは、どういうことでしょうか。

パウロは5章の18節から20節で自分が伝道者になったことについて次のように語っています。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」

パウロはまず、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させた」と言います。そして、「和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになった」と言います。そして、キリストの使者となった者として、「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」と訴えているのです。

このようにパウロは和解の伝道者でした。

私たちキリスト者は「神と和解させていただきなさい」と言って人々に伝道します。もちろん、その福音に基づいてキリスト者同士も和解します。外に向かって「神と和解させていただきなさい」と言いながら、もし自分たちが和解について無関心ならば、それはおかしなことです。他の人を赦し、自分も赦してもらう、それがキリスト者の交わりの大もとにあります。

そういう意味で、パウロはコリントの教会の人たちに「心を開いてください」と言っているのです。それは、いつでも和解する用意がある、赦す用意があるということです。

パウロはどうしてそういうことを言わなければならなかったのでしょうか。

今日の聖書の2節の後半から3節の前半にこうあります。「わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。」

おそらくパウロに対する非難がコリントの教会からあったのでしょう。例えば、「だれからもだまし取ったりしませんでした」というのは、パウロがお金のことで非難されたということなのかもしれません。もちろん、パウロはここで言っているように、そういうことは一切しませんでした。

和解をするときには和解を妨げているものを問題にしなければなりません。お互いの誤解や間違いをはっきりさせる必要があります。もちろん、それは悪口を言い合うことではありません。自分の不十分なことを知って、それについての赦しを求めるのです。

3節の後半にこうあります。「前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。」

「生死を共にする」とは、自分の持っているものを共にするというようなことではありません。一切のことを共にするということです。別の言い方をすれば、命における結びつきです。ですから、それは和解によって赦し合うということなしにはあり得ないことです。

4節の前半にこうあります。「わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。」

コリントの教会は多くの問題を抱えていました。パウロがここにいろいろ書かなければならなかったのはコリントの教会に様々な問題があったからです。

そのような教会に対してパウロはどうして信頼を寄せたり誇ったりすることができたのでしょうか。

私は3節からこの4節の間には時間的な隔たりがあるのではないかと思います。つまり、パウロがコリントの教会の人たちに和解の福音を宣べ伝えた結果、ついに彼らがそれを受け入れたのです。そして、罪の赦しを信じる者は罪の赦しを知らない者よりも遥かに信頼を寄せることができるとパウロは思ったのでしょう。

人間も教会も罪あるものです。しかし、もし、その人間なり、その教会なりが、まるで罪を知らない者のように振る舞ったら、どうでしょうか。信頼することができるでしょうか。それに反して、どんな人間、どんな教会であっても、自分の罪を悔い改めることを知っているとしたら、そのほうが遥かに信頼できるでしょう。だから、パウロはコリントの教会を信頼し、誇りとすることができたのです。

そこにパウロの慰めがありました。

4節の後半にこうあります。「わたしは慰めに満たされており」。

「慰め」という言葉は、パウロだけでなく、私たちにとっても力強い言葉です。慰めにはいつでも悲しみや苦しみが伴っています。喜びに満たされている者には慰めは必要ありません。喜ぶことの難しい者が慰められるのです。

人間の生活は悩みに満ちています。その悩みが本当の悩みになるのは、それが神と自分とを引き離すように思われる時です。こんな私が神に赦されるはずがないと思うのです。神の赦しを信じることができないのです。そのとき、和解の福音は、どんな事情の中にあっても、神が私たちを赦してくださることを告げてやみません。ですから、神と私たち人間との関係は慰める者と慰められる者の関係と言うことができます。

パウロは生涯この慰めを経験した人です。しかも、その慰めはいつもあふれるばかりでした。神の御業はいつも圧倒的です。ですから、これを受ける者にはあふれるほど与えられるのです。

4節の後半に、こうあります。「どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。」

パウロが次に語るのは「喜び」です。この「喜び」も和解の福音から来るものです。

パウロの生涯には様々な苦難が押し寄せて来ました。6章の4節以下にはパウロが経験した数々の苦難が書かれています。それは「欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」などでした。

そういう苦難の中にありながら、パウロはどうして喜びに満ちあふれることができたのでしょうか。

それに対する答えは一つです。イエス・キリストが十字架の上で赦しを与えてくださったからです。パウロは神の愛を知ったのです。神の愛はどんな苦難の中にあっても見えなくなることはありません。失うことはありません。だから、喜びに満ちあふれることができるのです。

 

和解の福音は一見すると力弱く見えるものです。何か受身のようで積極的でないように思えます。しかし、パウロはその和解の福音の使者であることを誇りとしました。しかも、その福音はコリントの教会のような教会にも豊かに力を発揮しました。そうであるなら、私たちもこの和解の福音をもって教会生活の中にその力を発揮させていきたいと思います。伝道だけでなく、私たちの中にも、この力を現していきたいと思います。