「〝霊〟は私たちの命の水」

                      ヨハネによる福音書73739

                                                  水田 雅敏

 

ヨハネによる福音書の7章は全体が物語として続いていて、途中で切るのがなかなか難しい箇所です。そこで今日は7章全体に触れてお話をします。

時は仮庵祭というユダヤの収穫感謝祭の期節です。主イエスは故郷のガリラヤから密かにエルサレムに上って来ておられます。

主イエスが神殿の境内で教え始めると、それを聞いていた人々は「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と驚きました。

ところが、その一方で、主イエスのことを快く思わず、むしろ苦々しい思いで見ている人々がいました。主イエスが、エルサレムのすぐ傍にあるベトザタの池のほとりで38年間、病の中にあった人を癒されたのが、本来どんな仕事もしてはいけない安息日であり、そのことから宗教的指導者たちとの間で激しい論争が生じていたのです。彼らは主イエスを、神を冒涜する者として、何とか殺そうと考え始めていました。

25節から27節にこうあります。「さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。『これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。』」

ここには、主イエスとはいったい誰かということを巡って、人々の思いが錯綜し、混乱している様子が伺われます。

このことに関連する記述が40節にも記されています。「この言葉を聞いて、群衆の中には、『この人は、本当にあの預言者だ』と言う者や、『この人はメシアだ』と言う者がいたが、このように言う者もいた。『メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。』こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。」

主イエスの存在、主イエスの言葉は、それに触れる人々に対立を生じさせます。判断が分かれるのです。「イエス」と言うか、「ノー」と言うか、どちらかを迫られるのです。

興味深いのは下役たちの反応です。下役たちというのはいわば神殿警備員です。彼らは祭司長たちとファリサイ派の人々に雇われています。

32節に「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした」とあります。

下役たちは基本的に自分の考えを挟んではいけません。命令されればそのとおりに動くことが求められます。この時は「イエスを捕まえて来い」と言われたのです。ところが、下役たちは主イエスを捕まえずに手ぶらで帰ってきました。主イエスを見つけられなかったわけではありません。26節にあるように、主イエスは公然と話しておられました。

祭司長たちやファリサイ派の人々は下役たちを問い詰めてこう言います。「どうして、あの男を連れて来なかったのか」。下役たちは言い訳をしません。「どうしても見つけられませんでした」とか「すんでのところで逃げられました」とか言いません。彼らはこう言いました。「今まで、あの人のように話した人はいません」。

下役たちは絶対とされている上司の命令に従いませんでした。そのあと彼らは罰せられたかもしれませんし、もしかしたら解雇されたかもしれません。そういうことよりも、彼らは自分で「正しい」と思うことに従って判断したのです。

ファリサイ派の人々は彼らに「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」と言います。

「あの男がメシアであるはずがないではないか。そんなことも分からないのか。それはお前たちに教育がないからだ」というのです。

今日でも似たようなことがあります。「科学を少しでも学んだ者であれば、あるいは歴史を少しでも学んだ者であれば、一人の人間、しかも二千年前にパレスチナ地方の一角に現れた一人の男が、神の子であり救い主であったということはあるはずがない。そんなことを信じる者は科学を知らないからだ。歴史を知らないからだ」。そうした非難、嘲笑は今日でもあります。

確かに、この世の考えでいけば、そういうことになるのかもしれません。しかし、主イエスという存在は、そうしたこの世の考えを超えて、その存在の内側から本物であるということ、真実であるということを私たちに訴えかけてきます。私たちはどちらに自分を賭けるべきかが問われるのです。

それでは主イエス自身はご自分のことを何と言われたのでしょうか。

28節から29節にこうあります。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」

人々は主イエスのルーツについて「この人がどこの出身か知っている」と言いましたが、それは単にこの地上でのことです。主イエスは「それはそうだ」と肯定しながら、ご自分がどこから来たのかについてもっと根源的な話をされます。それは神のもとから来られたということです。

主イエスはご自分がどこから来たのかについてだけではなく、どこへ行くのかについても語られます。33節にこうあります。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。」

神のもとから来て神のもとへ帰られる方、それが主イエスです。その方が私たちに問いを投げかけ、迫ってこられるのです。

37節から38節で主イエスはこう言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

この言葉が語られたのは仮庵祭のクライマックスの時でした。祭りのクライマックスというのはみんなが喜びに浮かれて大騒ぎをしている時です。しかし、そうした時にこそ、冷めた人は逆に、それに乗れない自分を強く意識するのではないでしょうか。深い魂の渇きがある時には「自分の渇きはこんな一時的な騒ぎでは決して癒されない。この祭りはやがて過ぎ去る。そうすれば私の渇きはまた始まる」と思うでしょう。

そのような人々に向かって主イエスは呼びかけるのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

「生きた水」、それは私たちを生かす神の恵みの力です。この神の恵みの力をヨハネによる福音書は「〝霊〟」という言葉で呼んでいます。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている〝霊〟について言われたのである。」

聖書では、水はしばしば〝霊〟の象徴と見なされています。例えば、創世記の天地創造の記事に「闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」という言葉がありますが、その水の動きは〝霊〟の動きと考えられたのでしょう。

また、聖書では水に用いられる「注ぐ」という言葉は〝霊〟にも用いられています。例えば、ヨエル書の3章の1節にこうあります。「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。」

ちょうど水が染み入ってくるように、〝霊〟もどんなところにも入っていきます。その〝霊〟を受けた者は皆、満たされるのです。〝霊〟はまさに私たちの命の水なのです。

 

「この〝霊〟を受けなさい。この命の水を飲みなさい」と主イエスは私たち一人一人に呼びかけておられます。この呼びかけに応えて、私たちは神の恵みと力に生かされる人生を歩んでいきたいと思います。