「キリストの愛」

                          コリントの信徒への手紙二 51115

                                         水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の5章の11節から15節です。

11節でパウロはこう言っています。主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。」

「わたしたちは、神にはありのままに知られています」とあります。この地上における私たちの生活のすべて、私たちがしていることの一つ一つが神の前に明らかになっているというのです。人間にとってこれほど恐ろしいことがほかにあるでしょうか。

もちろん、パウロはこれによって人々を脅かそうとしているのではありません。だからこそ、「人々の説得に努めます」と言うのです。パウロが人々の説得に努めるのは神にありのままに知られているということが単に恐ろしいことではないからです。

神にありのままに知られているということ、それは神に対して私たちの罪が露わになっているということです。もう何も隠すことができなくなっているということです。ですから、神が私たちの一切を御存じだということは、恐ろしさと共にすべてが知られているという安心感を私たちに与えるのではないでしょうか。私たちはもはや自分の暗い部分、闇の部分を隠す必要はないのです。

それと共にパウロはコリントの教会の人たちの良心にもありのままに知られたいと願っています。「わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。」

これは神の場合とは違います。神に対して一切が明らかなことはまぎれもない事実です。しかし、コリントの教会の人たちが同じようにそれを知っているかどうかは別です。パウロは神に対してもコリントの教会の人たちに対しても自分自身のことが知られることによって安心して伝道の働きをすることができると考えているのでしょう。

ですから、それは自己推薦とは違います。

12節の前半にこうあります。「わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。」

福音を語る人は自分がその務めにふさわしくない者であることを知っています。それだけに託された福音を精一杯語ろうとします。しかし、それは一部の人たちには厚かましいと思われるかもしれません。パウロがわたしたちはあなたがたに自己推薦するのではないと言ったのは、そう思われたくないという思いだけでなく、実際に自己推薦する者がいたからです。

自己推薦というのはいつの時代でも、福音を語る人にとっては大きな誘惑です。神のことを語ると言いながら密かに、あるいは露わに自分を宣伝するのです。

しかし、パウロはそうではありませんでした。12節の後半にこうあります。「ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。」

伝道のためにわたしのことを世の人々に紹介しなければならないこともあるだろう、そのためにわたしはあえて自分自身のことを語るというのです。

13節にこうあります。「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。」

おそらく、パウロは気が変になったのではないか、という評判でも立ったのでしょう。異言を語るときなどは特にそうだったのかもしれません。異言というのは神の霊を受けて人に理解できない言葉で話すことです。しかし、それは神のためであり、あなたがたのためだったとパウロは言います。それほど神を愛し、教会に仕えることに熱心だったのです。

ではパウロはどういう力によって動かされていたのでしょうか。

14節の前半にこうあります。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」

イエス・キリストの愛、それがパウロの伝道の源でした。「駆り立てている」とありますが、これのもとの言葉は「板挟みにする」という意味の言葉です。両方から挟みつけるようにしてキリストの愛が迫ってくるのです。そのため、パウロはもう何もすることができませんでした。ただ押し出されるだけです。キリストの愛に押し出されるままに働いたのです。

14節の後半にこうあります。「わたしたちはこう考えます。」

「こう考えます」というのは「こう信じます」ということです。パウロはイエス・キリストの十字架の意味について信仰に基づくはっきりとした理解を持っていました。

ではそれはどういう理解でしょうか。

「すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。」

「一人の方」、すなわちイエス・キリストの十字架の死はただ一人のための死ではありませんでした。それは「すべての人のため」の死でした。イエス・キリストはすべての人の罪を負って十字架の上で死なれたのです。本来なら人間が自分の罪のために死ななければならなかったのです。その死をイエス・キリストが代わって死んでくださったのです。ですから、そのときすべての人もイエス・キリストと共に死んだことになります。何に死んだのでしょう。罪に死にました。古い自分に死にました。

その人たちはそのあと、どうしたらよいのでしょうか。死んだままなのでしょうか。神はイエス・キリストと共に死んだ人たちをそのまま放っておかれませんでした。イエス・キリストと共に復活の命に生きる者としてくださいました。新しい人生に生きるのです。

15節にこうあります。「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

 

ここでパウロが語っているのは彼の人生そのものです。「わたしはイエス・キリストと共に死にイエス・キリストと共に復活した。今、復活の命に生かされている。神によって新しい人生を歩まされている。そして、あなたがたもそうなのだ。」私たちもそうなのです。イエス・キリストの十字架によって罪から救われた私たちはイエス・キリストの復活の命の中に生かされています。それゆえ、私たちはもはや自分自身のためには生きません。イエス・キリストのために生きます。それゆえにまた他者のために生きます。こうしてキリストの愛は私たちの生き方を神の御心に沿うものへと整え、導いてくれるのです。