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その子をイエスと名付けなさい
マタイによる福音書 1章18~25節
水田雅敏
23節に、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」とあります。
この「我々」の中に私たちも含まれているということを始めに覚えたいと思います。私たちは誰一人として、この「我々」と呼ばれる者の中から自分を除外する必要はありません。いや、その必要がないどころか、私たち一人ひとりが、すべての者が、主イエスを通して「神は私と共にいてくださる」との告白と確信へと招かれているのです。
私たちが必死になって神と共にいようと努めなければならないのではありません。神が逃げ出してしまわれないように私たちのほうから探し回らなければならないのではありません。逆に、神が御子イエスにおいて私たちに近づき、私たちと共にいてくださり、私たちを捕らえ続けてくださっているのです。
「共におられる」ということは一時的な、かりそめのことではありません。それは継続的なことであり、私たちの全生涯に渡ることであり、さらには死のあとにおいても続く、神の永遠の真実の約束なのです。
私たちの神に対する経験や実感には両極端の二つがあります。一つは、神は本当に私たちと共に、あるいはこの私と共にいてくださるとの経験や実感です。そのとき私たちは「インマヌエル」ということの意味がよく分かり、心から告白できる者とされます。もう一つは、これとは反対に、神が私たちと共にいてくださるとはどうしても信じられない、神が私と共にいてくださるとは真実のこととは思えないという苦悩に満ちた経験と問いです。私たちの人生においてはどちらも経験する事柄です。神は本当に私と共にいてくださると歓喜に満ちたときを持つことができることもあれば、神はいったいどこにおられるのかと苦しみの叫びを挙げるほかないときもあります。
けれども詩編の139篇の詩人は7節から10節で次のように歌っています。
「どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」
われわれの感覚では神が共にいてくださるとは到底思えないときにも神は共にいてくださる、その約束は真実で変わることはないと歌われています。
この約束とは異なると思える現実が目の前にあったとしても、それにもかかわらずインマヌエルなる神を信じる信仰に生きる、それは私たちに与えられている大いなる恵みです。
この恵みをいくら強調しても強調し過ぎることはありません。厚い雲に覆われて、輝く星が私たちの目には見えなくても、雲の上で変わることのない光を放っている星のように、苦しみと呻きと悲しみの中で神が見えなくなっても、神は私たちと共にいてくださいます。クリスマスはそのことを確認する時であり、その確信を新しくする時です。
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