今も生きておられる方 

          ルカによる福音書 24章1~12節

                水田雅敏

 

イエスの墓がどこにあったのか。このことは初代教会においてかなり早い時点で忘れ去られてしまった問いだったようです。イースターの朝、イエスの墓の中には何もなかったということがイエスの復活の証しとして福音書に伝えられていますが、墓そのものに興味を持ち続けた人はいなかったのです。

イエスは私たち人間を救うためにこの地上にやって来られました。そして、生きるとはどういうことかということを教えてくださいました。イエスによれば、人間が生きるということは人と人とが愛し合い、分かち合い、支え合って、人と人との交わりに生きるということです。そして、このような生き方を根底で支えてくださる方こそ、愛の源であり、命の造り主である神ご自身だということを、イエスは教えてくださいました。イエスはこの二つのこと、人と人との交わりに生きることと神のもとで生きることが一体となって切り離すことのできないものであり、この二つを同時に生きるとき、人間は本当の意味で生きるのだということを教えてくださったのです。

ヨハネによる福音書の11章の25五節でイエスは次のように言っておられます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」キリスト教の信仰において決定的なことは復活された方がイエスだったということです。神への愛と隣人への愛を最初から最後まで生き抜かれた方が復活されたということこそ復活信仰の中心です。

キリスト者であるということ、キリスト者になるということはこの神への愛と隣人への愛を生き抜かれた方を受け入れ、この方に従って生きるということです。そして、そのような志を同じくする仲間と共に生きるということです。そういう意味で復活というのは神と隣人を愛し、その愛によって生きる者に与えられる新しい交わりです。それは今ここに生きている私たちの間で既に始まっており、私たちの死のあとにも続いていく、主にある愛の交わりです。

 

始めに言いましたように、イエスの墓がどこにあったのかということを最初のキリスト者たちは早々と忘れ去ってしまいました。しかしそれは正しい態度でもありました。なぜなら、生きておられる方を死者の中に捜す必要はないからです。イエスは今もなお、わたしたちとの愛の交わりを通して共にいてくださる。人と人との関わりの中で、そしてわたしたち自身の中でイエスは生きて働いておられる。これこそ最初のキリスト者たちが持っていた確信であり、この確信こそが彼らを伝道の業へ、また奉仕の業へと送り出した原動力だったのです。イエスを信じる人々の集い、イエスに従う人々の愛の交わりの中にイエスは共におられます。また、私たちがイエスに従って神と隣人とに仕えるとき、その働きの中にイエスは共におられます。私たちがイエスに連なって生きるとき、まさしくそのようなときに私たちは復活を味わい知ることになるということを、この朝、深く心に留めたいと思います。