「愛と正義の主イエス」

                      ヨハネによる福音書21322

                                                  水田 雅敏 

 

皆さんは主イエスに対してどのようなイメージをお持ちでしょうか。私たちを温かく包み込んでくださるような優しいお方というイメージを持っておられる方が案外多いのではないでしょうか。神は愛であると聖書は語ります。そしてその神の愛が見える形となったお方が主イエスであると聖書は証ししています。それはその通りです。しかし、注意しなければならないのは聖書の言う愛とは決して私たちを甘やかすような愛ではないということです。主イエスはいつも優しく穏やかな表情を見せておられるわけではありません。

前回学んだ「カナでの婚礼」と題された箇所では、母マリアさえも突き放すような厳しさと、最後には彼女の願いを適えてくださる優しさの両方が現れていました。今日の「神殿から商人を追い出す」と題された箇所ではどうでしょうか。これは、主イエスは優しいお方だというイメージを持っておられる方には随分戸惑われるような話ではないかと思います。

エルサレムへ上って行かれた主イエスは、神殿に入ると、境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを、ご覧になりました。そして、いきなり縄で鞭を作り、羊や牛を全て境内から追い出し、両替人のお金をまき散らし、その台を倒すと、鳩を売る者たちにこう言われました。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

主イエスはどうしてこのような行動を取られたのでしょうか。そのことを考えるにあたって、私たちはまず最初に、神殿にどうしてこのような商売をする人たちがいたのかを見ておきたいと思います。

当時、神殿では犠牲の動物を献げることが習慣になっていました。しかし、エルサレムに巡礼に来る多くの人々は、自分の故郷からはるばる犠牲の献げ物にする動物を持ってくることはできません。神殿に来てからそれを買い求めるのが通例でした。また、神殿ではユダヤの通貨しか通用しなかったので、それぞれの地域のお金を両替することも必要でした。

そのことは主イエスも知っておられたと思います。ですから、もしもここで、神殿という場所にふさわしい仕方で商売がつつましく行われていたとすれば、主イエスもこんなことはされなかっただろうと思います。

しかし今日でもよくあるように、遠くから来る者は事情がよく分かりませんし、ほかに方法もありませんので、足もとを見られて高い値段を吹っかけられます。巡礼者は騙されて高いお金を取られたからといって、犠牲の献げ物をせずに帰るわけにはいきません。神殿が唯一、神が人間にまみえる場所であるとされていたからです。

貧しい人たちにとってはエルサレムに行くだけでも大変だったでしょう。12節から13節にあるように、主イエスの一行もガリラヤのカファルナウムからエルサレムに出てきた「おのぼりさん」でした。もしかすると彼らは高い値段を吹っかけられたりすることなどを当事者として既に経験していたのかもしれません。

そうした不正な事態を黙認するだけでなく、その背後で私腹を肥やしていたのが神殿に連なる宗教家たちでした。商売人、両替人はいわば彼らの縄張りの中で仕事をさせてもらって、ショバ代を払いながら、裏でしっかり彼らと繋がっていたのでしょう。主イエスはそうした仕組みもご存じだったと思います。

境内に入ってみると、そこではまるで神などいないかのごとく全ての事が進められていました。「神はいったいどこにおられるのか、どこに押しやられてしまったのか」、そのような憤りを覚えられたに違いありません。

ここで主イエスの怒りは二つの事柄に向けられていました。一つは、神が神として立てられず、「父の家」と言うべき神殿が商売に利用されていること、それによって神殿が汚されているということです。もう一つは、神殿においてさえ貧しい人たち、立場の弱い人たちが犠牲にされ、その上にあぐらをかいている人々がいるということです。

主イエスは、ある時は、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と言われました。神の主権が侵され、人間が好き勝手なことをし、弱い人たちが虐げられ、正義と公正が失われているところでは、主イエスはお怒りになるのです。逆に言えば、そうであってこそ、まことの神であり、愛の主であると言えるのではないでしょうか。まことの愛というものは時に怒りとして爆発するほどの情熱を内に秘めているものなのです。

さて、このような主イエスの行動を見つめていた人々がいました。弟子たちとユダヤ人です。

主イエスの行動を見ていた弟子たちは、聖書に「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出しました。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」というのは詩編の69篇の10節の言葉です。「あなたの神殿に対する熱情が、わたしを食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが、わたしの上にふりかかっています。」ある人が熱心に神の家のことを思い、神の栄光のために打ち込んでいたために、悪意に満ちた人々の嘲りを一身に受けることになったというのです。弟子たちは、その姿を、主イエスの姿に当てはめて、「こんなことをしておられたら、主イエスはいつか殺されてしまうのではないか」と不安になったかもしれません。

主イエスの行動を見ていたユダヤ人たちは「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と主に質問しました。「あなたはいったい何の権威によってこんなことをするのか。その証拠を見せなさい」と言うのです。

それに対して主イエスはこうお答えになりました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」これは、主イエスの十字架と復活を意味するものです。

「この神殿」とは主イエスの体のことであり、それを「壊す」とは主イエスを殺すことです。「あなたがたはやがてわたしを殺すことになるだろう」と言うのです。主イエスはこの時既に、ご自分の死、十字架の死を見据えておられたのです。

「三日で建て直してみせる」とは三日目、イースターの日の復活を預言した言葉です。主イエスが十字架にかけられた時、そこを通りかかった人々は主をののしってこう言いました。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日目で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」おそらく、主イエスが神殿で語られた言葉が語り伝えられていたのでしょう。それが主イエスをののしる材料として用いられたのです。

そのような人々の嘲笑の中で、主イエスは自らが語り、彼らがののしりの材料にしたその言葉を実現してくださいました。それは十字架を降りてみせるという仕方によってではありません。十字架の上に留まり続け、死に至ることによってお応えになったのです。まさにそのような不思議な仕方によって、主の体である神殿は三日後に建て直されるのです。

ここに、この十字架と復活の主イエスの姿の中に、私たちの教会の依って立つ根拠があります。いや、教会はここにしか立つことができないのです。人間的な思いや思惑の上に教会を立てようとするなら、主イエスはキリスト者といえども、やはりお怒りになるでしょう。「そのようなものは、ここから運び出せ。わたしの体を汚してはならない。」

 

私たちは、私たちの信仰の根本にこそ目を向け、その信仰を与えてくださった主イエスに依り頼みながら、主の体なる教会を造り上げていきたいと思います。愛の主イエス、正義の主イエスに学びつつ、その務めを果たしていきたいと思います。