「神の栄光」

                            コリントの信徒への手紙二 3711節 

                                               水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の3章の7節から11節です。

7節でパウロはこう言っています。「ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば」。「石に刻まれた文字」とあります。これは十戒を指しています。神がモーセを通してイスラエルの民にお与えになった戒めです。

では、「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務め」とは何でしょうか。前回学びました6節の最後の所でパウロは大変厳しい言葉を語っています。「文字は殺す」。モーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒は文字の契約であり、その内容は人間の罪のゆえに人を殺すものだったといいます。つまり、十戒は死に仕える務めをなすものだったというのです。

「殺す」といい、「死」といい、それは律法の力を信じる者にとっては到底認めることができないことでした。律法を与えられたことはイスラエルの人々にとって命を与えられたことでした。なぜなら、律法を守ることができれば救われるに違いなかったからです。律法を守ることができると信じている人々にとって律法は命の道でした。自分のすることに自信があり、自分はいつでも正しい道を歩むことができると信じている人々にとって律法は死に仕えるものではなく命の道でした。

しかし、パウロのようにイエス・キリストによって救われた人はそのように考えることはできませんでした。律法は人間を生かしてくれるものではありませんでした。律法そのものが悪いのではありません。人間に罪があり、それゆえに、命を与えてくれるはずの律法がかえって死を与えることになったのです。

パウロはローマの信徒への手紙の7章の7節から10節で次のように言っています。「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。」律法が、人間をむさぼりから救わないで、かえってむさぼりを引き起こす結果になり、ついには人を死なせるに至るというのです。

これは驚くべき言葉です。いったい誰がそのようなことを予想したでしょうか。イスラエルの人々は律法の偉大さに心を惹かれて自分の中にある罪に気づくことができませんでした。律法を受けることの結果について思うことができませんでした。律法を受ければ、それは守ることができると信じていました。

パウロも最初はそうでした。自分は律法を守ることについては落ち度のない者だと豪語していた時代さえありました。そのように考えて怪しまなかったのです。しかし、パウロは、自分が迫害してやまなかったイエス・キリストに捕らえられ、その救いを受けることによって全く変わりました。律法を守ることができると考えていたパウロが、今はその律法こそ自分の中に眠る罪を目覚めさせるものだと思うようになりました。それはイエス・キリストによって人間の罪がどんなに恐ろしいものであるかということを知ることができるようになったからです。罪は人間を思いもよらない方向に導いていきます。罪のある限り、神の掟すら本来の命の務めが果たせないで死の務めをするようになることをパウロは悟ったのです。

今日の聖書の8節にこうあります。「霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。」「霊に仕える務め」とあります。これは福音の働きを表しています。イエス・キリストの十字架の救いです。律法が死に導くものであるのに対し、福音は人間の罪を赦し、命を与えるものです。そうであるなら、福音はどれほど神の栄光を帯びているだろうかというのです。

9節にこうあります。「人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。」「人を罪に定める務め」とあります。これは律法の働きを表しています。「人を義とする務め」とあります。これは福音の働きを表しています。信仰とは人間の生き死にに関わることです。なぜなら、信仰を持っている人は、喜びをもって生きることができ、希望をもって死ぬことができるからです。

パウロは以前、律法について希望をもっていました。神の戒めが与えられたときにモーセの顔が神の栄光を受けて輝いたことはパウロにとって大きな誇りでした。その彼が、律法の働きを「人を殺す文字」と言い、「死に仕える務め」と言い、今は、「人を罪に定める務め」と言うのです。これは一人のユダヤ人としては残念なことだったと思います。しかし、一人のキリスト者としてははっきりと言っておかなければならないことでした。

私たちはイエス・キリストの十字架の救いによって義とされます。義とはイエス・キリストを通して神との関係が回復されることです。しかし、今の自分を見ると、どこが義とされたのかと思うほどに義とはおよそ関係のないような生活をしています。罪から離れることができないであえいでいるような生活をしています。そういうときに、私たちにとって慰めになるのは義とされているという事実です。それは誰も取り消すことができません。まだ完成していないところがあるかもしれません。しかし、イエス・キリストにより、神によって義とされた事実を思い起こすとき、私たちは心が安らかになります。義とされることはそれほどに確かな力を与えてくれるものなのです。

そうであるなら、福音は律法よりも遙かに神の栄光に満ちあふれているに違いありません。神の栄光は救いに関わることです。モーセの顔が輝いたのも律法が神の救いに関わることだったからです。しかし、福音はそれとは比較にならないほど神の栄光に満ち溢れているのです。

10節から11節にこうあります。「そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。」10節に「かつて栄光を与えられたもの」とあり、11節に「消え去るべきもの」とあります。これは律法を表しています。それに対して10節の「はるかに優れた栄光」と11節の「永続するもの」、これは福音を表しています。

パウロの時代の教会にはユダヤの人々が大勢いました。彼らは、律法の中に神の栄光を見、律法を持つことを誇りに思っていました。それらの人々に福音を知らせるためにも、パウロは律法もまた神の栄光であることを言わなければならなかったのでしょう。しかし、パウロにとって律法は「消え去るべきもの」であり、福音は「永続するもの」でした。なぜなら、神の栄光はイエス・キリストにおいてその姿をはっきりと鮮やかに現したからです。

今日の聖書においてパウロは、福音を賛美しながら、それがいかに栄光に富むものであるかを語っています。神の栄光を語ること、それは神との関係を語ることです。その中心になるのはイエス・キリストの十字架の救いです。ですから、信仰の言葉はいつでも賛美の言葉になります。神の栄光を語ることはイエス・キリストの十字架の救いを述べる最も善い方法なのです。

パウロはイエス・キリストの十字架をいつも仰ぎ見ていました。私たちも救われた生活の中に神の栄光を見る者でありたいと思います。