「天の故郷を仰ぎみる」

              ヘブライ人への手紙11822節 

                                                                                                     水田 雅敏

 

信仰とは何か、信じるとはどういうことか、このヘブライ人への手紙の著者は11章に入って、そのことを、この手紙の読者がよく知っている信仰の先輩たちの、信仰に生き、あるいは信仰に死んだ姿に学ぼうとしています。

今日の聖書に登場してくる人々のうち特に注目したいのはアブラハムです。

ここにはその子イサク、またその子ヤコブの名も挙げられています。ユダヤの人々は自分たちがアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であることに誇りを持っていました。

この三人はしばしば「族長」、部族の長という言葉で呼ばれます。しかも、単なる民族の先祖であるだけではなくて信仰の民の先祖でした。ですから、この手紙の読者の中にはユダヤ人だけではなくて異邦人も沢山いたと思いますけれども、この手紙の著者はそのことに少しも構うことなくこの三人の話をしています。そして、それを聞く異邦人キリスト者もまた自分たちがこの三人の信仰を受け継いでいることを信じていました。

私たちの教会も同じことです。この三人の信仰によって生かされているのです。

自分たちはアブラハム以来の信仰の民の歴史を持っていると私たちが思うとき、いったいどこからその歴史を数えるのでしょうか。

それはアブラハムが神の言葉を聞き、それに従って旅立ったところから始まります。

8節にこうあります。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産を受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」

この時、アブラハムは異教徒でした。まだまことの神を知らなかったのです。そこに突然、神の声が聞こえました。そこから出て行きなさい。あなたの生まれ故郷を離れなさい、そのように呼び出されたのです。

神に呼ばれることなくして信仰はありません。私は神を信じているけれども、まだ呼ばれた体験はないということではないのです。信じるとは呼ばれるということです。そして、故郷を出ることです。

9節の前半にこうあります。「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み」。

「約束の地」というのは乳と蜜の流れる地カナンです。そこに他国に宿るようにして住んだというのです。他国に宿るようにしてというのは、そこを永住の場所としないということです。そこに基礎を据えなかったということです。基礎を持つ家を造らないでテントに住んだのです。

事実、創世記の23章を読むと、アブラハムの妻サラが死にます。その時アブラハムはとても困りました。葬る場所がなかったからです。

今日でも私たちはそう考えることがあると思います。様々な土地を仕事のために転々として、この仙台の地にようやく住む所を定め、ここが自分の終の棲家だと思い定めたとき、それに併せて墓地を造るということがあると思います。

アブラハムの頃も、どんなに仮住まいをしている者でも自分の家族が死んだ時には、それを葬るのは自分の土地でなければなりませんでした。ところが、自分の妻を葬る土地さえアブラハムは持たなかったのです。

なぜそんなことができたのでしょうか。そこが大事です。

10節にこうあります。「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」

家を建て都市を造るには、計画を立て設計をする者がいなければなりません。しかし、建設をする者がいなければ、ただの絵に描いた餅になります。神、自分を呼び出した神が御自分で計画を立て建設してくださる。しっかりした土台を持った永住の可能な家ばかりが集まる都を造っていてくださる。アブラハムはその望みに生きたのです。

そして、このことについてはちゃんと説明しなければならないと思ったのでしょう。この手紙の著者は13節以下に、この都とは何かということを改めて説明をしました。これはアブラハムだけのことではない。アブラハムと共に生きたイサクもヤコブも妻のサラも皆、信仰を持って死んだ。彼らはよそ者として生き、よそ者として死にながら、しかし、よそ者であることを喜んだ。まだ手に入れることができない、まだそこに住むことができない堅固な土台を持つ都を遥かに望みながら喜びに溢れたというのです。

16節にこうあります。「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」

信仰とは故郷を出て行くことであり、天の故郷を仰ぎつつ旅することなのです。

さて、信仰に生きたアブラハムにも試練の時がありました。

17節から18節にこうあります。「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。」

創世記の21章を読むと、アブラハムに独り子イサクが与えられたことが書かれています。ところが、22章になると、そのイサクを献げよと神から命令がありました。そして、創世記はアブラハムが黙々とイサクを献げる姿を書いています。

そこで多くの人は、アブラハムはそこでどんなに悩んだことだろうかとその心の内を察しました。しかし、この手紙の著者はアブラハムの心の状態を分析することに興味はありません。ただはっきり語っています。「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。」アブラハムは信仰を保った。信仰を失わなかった。信仰によって献げた。悩みながら献げたというのではないのです。

この手紙の著者はそのことを19節でこのように説明しています。「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」

アブラハムは既に復活の信仰に生きていたというのです。天の故郷の永遠の命の住まいを信じる者は復活を信じるのです。

この手紙の著者は復活についてあまり語らないということがしばしば言われます。確かに明らかな言葉で語ることは少ないかもしれません。しかし、他方、そんなことはないとも言えます。この手紙に一貫して流れているものは復活の信仰だと言う人々もいるのです。

そこで読んでおきたいのは13章の20節から21節です。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」

20節に「死者の中から引き上げられた平和の神」という言葉が出てきます。

信じることは、ただ神に呼び出され、故郷の地から旅立ち、他国に宿るようにして住み、胸をドキドキさせながら冒険の連続をするということに終わるのではありません。不安の種ばかり作るようでありますけれども、しかし、平和なのです。心が安らかなのです。天の故郷を見ているからです。そして、私たちに天の故郷を見せてくれる、いわば天窓のようなものが主イエスの復活なのです。

今日の聖書の16節の後半にこうあります。「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。」

聖書には慰めの言葉がたくさん書かれていますけれども、これはその中でもまことに慰めに満ちた言葉です。私たち一人一人にこの言葉を当てはめていいのです。辛い時、悲しい時にこの言葉を思い起こせばいいのです。神は私の神と呼ばれることを恥となさらない。この私の神になっていてくださるのです。

そのために主イエスは私たちを訪ねて来てくださっています。私たちに語りかけていてくださいます。しかも、主イエスに呼ばれて旅立つとき、私たちは様々な束縛から解き放たれます。様々な思い煩いから解き放たれます。つまらない望みからも解き放たれて、天の故郷にある愛の真理に生きることができるようになります。

 

そのような神に呼ばれ、そのような神を私たちの神となすことができている幸いを、私たちは心から感謝したいと思います。