「イエスは良い羊飼い」

                      ヨハネによる福音書10718

                                                   水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の10章の7節から18節です。

この箇所で主イエスは同じ言葉を二度繰り返しておられます。それは11節と14節の「わたしは良い羊飼いである」という言葉です。

「わたしは良い羊飼いである」。ある人はここの所を「わたしが良い羊飼いである」と訳しています。「わたしは」と訳されているところを「わたしが」と訳しているのです。

「わたしは」と言う場合と「わたしが」と言う場合とでは意味が違ってきます。例えば、ここに一人の女性がいたとします。「この人の夫は誰だろう」と周りを見回す人がいた時、「私が夫です」と私たちは名乗り出ます。

主イエスはここで、「わたしが良い羊飼いだ」と名乗り出ておられます。「わたしこそが」と名乗っておられるのです。

しかも、「良い羊飼い」です。

ある人はこの「良い」と訳されている所を「本物の」と訳しています。「わたしが本物の羊飼いである。」

主イエスがなぜそのように名乗り出ておられるかというと、世の中にはまがいものが多いからです。

ヨハネによる福音書において主イエスは、「わたしは世の光である」、「わたしは復活である」、「わたしは道である」、「わたしは真理である」、「わたしは命である」と、ご自身がどのような存在であるかを、言葉を重ねて宣言しておられます。これらも皆、「わたしが世の光」、「わたしが復活」、「わたしが道」、「わたしが真理」、「わたしが命」と名乗られた、と読むことができます。

それはまがいものの光があるからです。まがいものの道があるからです。「その道でもない。この道でもない。このわたし、このわたしこそ、まことの道である。あなたがたはここを通ったらよい」。主イエスはそのように私たちを招いておられるのです。

この主イエスの言葉を聞いて「アーメン」と言って応答すること、それが私たちのなすべきことです。

18節にはこういう主イエスの言葉が伝えられています。「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

ある人はここの所を「わたしは命を捨てる力があり、それを再び受ける力がある」と訳しています。また、ある人は「わたしは命を捨てる自由を持ち、それを再び受ける自由を持つ」と訳しています。主イエスはここでご自分の力と自由を告げておられる。神の御心に適う力と自由を得た者として、ここに登場しておられるのです。

「これはわたしが父から受けた掟である」という言葉は、そのことを意味しています。「神の御心から出、その御心に定められたこととして、わたしは力を持って、自由を持って、ここに現れている」と言われるのです。

それでは、その力、その自由とはいったい何でしょうか。それは羊飼いが羊にまことの命を与えることです。

10節にこうあります。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

この主イエスが与えてくださるまことの命を、私たちが受けることができるかどうかは、「わたしが、あなたの羊飼い」と告げてくださる主イエスの言葉を聞き取ることができるかどうか、ということに懸かっています。「わたしがあなたの羊飼い。なぜあなたはそこでひるむのか。なぜうずくまるのか。あなたはただわたしのあとについて来たらよい」。その御声を私たちは信仰をもって聞き取るのです。

そのようにして私たちが主イエスのあとについて行こうとする時、もう一つ聞こえてくる言葉があります。それは7節と9節の「わたしは羊の門である」「わたしは門である」という言葉です。

これは興味深いことです。主イエスは10章の初めでは羊の門については何もおっしゃいませんでした。そこでは羊飼いが門を出入りするということだけを語っておられました。それなのに、ここでは「わたしが羊の門だ」と言われます。

おそらく、どうしてもそう言いたかったのでしょう。なぜかというと、私たちを守るためです。

この門は私たちにはっきりとした道を示します。この門こそ私たちが出入りする道です。しかもこの門は私たちを守るものです。門が閉じられる時、私たちは確かに守られます。

しかし、どうしても閉じたい時、閉じなければならない時が来ます。それは盗人や強盗が入ろうとする時です。

盗人や強盗はいったい何をするのでしょうか。10節を読むと、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」とあります。

主イエスは私たちに言われるのです。「あなたがたは死んではいけない。滅ぼされてはならない。あなたがたはわたしのもの。ほかの羊飼いはあなたがたを自分のものとは言わない。自分のものでないから、自分の利益のために役立てることしか考えない。だから彼らはあなたがたの命を無視することができる。利用したいだけ利用して犠牲にすることができる。しかしわたしは違う。わたしはあなたがたの本当の羊飼いである。雇い人ではない」。

13節に「彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」とあります。

当時の羊飼いはほとんどが雇われていたようです。主人の羊を預かっていたのです。狼に襲われ、自分の命か羊の命かいずれかを捨てるとなれば、自分のものでないものに命を捨てる気にはならないでしょう。

しかし、主イエスはご自分の命をお捨てになります。「わたしはいつもあなたがたのことが心配でならない。いつもあなたがたの命を心にかけている。だからわたしはあなたがたのために命を捨てる。あなたがたのために命を獲得する」。主イエスはそのように告げてくださっているのです。

私たちは今、主の日の礼拝を献げています。主の日の礼拝というのは毎週繰り返されるものだと私たちは思っています。しかしそこで知らされるのは、今週の主の日の礼拝はもう二度と来ないということです。それだけ私たちの地上の命が削られてしまうのです。来週の主の日の礼拝を誰が確かに迎えることができるか保証できません。

しかしそれは私たちにとって悲しいことではありません。「わたしこそが良い羊飼い」と主イエスがここで身を乗り出すようにして声をかけてくださりながら、今朝も私たちに命の糧をくださいます。「わたしは命のパン。わたしが命のパン。わたしこそが命のパンだ」と告げてくださり、「それを食べるがよい」と言ってくださるのです。

「あなたがたの命は地上の死をもって終わることはない。死に勝ち、命を獲得する力と自由を持つわたしが、あなたがたにわたしの命をあげる」と言ってくださるのです。

 

その時、この礼拝は、ただの繰り返しではなくて、全く新しい力と自由をもって私たちに恵みが与えられる時となります。そのようなかけがえのない時を、こうして一緒に過ごすことのできる幸いを、今私たちは与えられているのです。