「信仰の成熟を目指して」

             ヘブライ人への手紙511節~612

                                水田 雅敏 

 

今日の聖書の5章の11節でこの手紙の著者はこう言っています。「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。」。

「このこと」というのはここまで語ってきたこと、特に5章の10節で語られた、キリストが「メルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれた」ということです。

このキリストの大祭司としての務めについて話そうとするとたくさん言いたいことがあるのだけれども、あなたがたの耳が鈍くなっているので、うまく説明できるかどうか分からないというのです。

5章の12節から13節にこうあります。「実際、あなたがたは今ではもう、教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。」

ここでまず想像されるのは、この手紙を読んでいる人たちの中に洗礼を受けてもう何年も教会生活をしている人がいるということです。そういう人たちは信仰のことについて既によく知っていて人に教えることができるはずなのに実際にはまだ初歩の段階にある、だから難しい話は分からない、彼らは乳を飲ませないと育たないような幼子であって固い食物を食べさせるわけにはいかない、それに似ているというのです。

5章の14節にこうあります。「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」

「一人前の大人」、これは信仰において分別のある人ということです。信仰において何が正しいか、何が悪いかということが分かる人に成長するために、今あなたがたに丁寧に話しをしたいというのです。

そのためにまず大切なのはキリストの教えの初歩を離れることだといいます。

6章の2節にこうあります。「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」

「キリストの教えの初歩」については6章の1節以下に細かく書かれています。「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信頼、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず」。

「死んだ行いの悔い改め」というのは洗礼を受ける前に送っていた生活を捨てることです。自己中心的な生き方から神を中心とした生き方に変わることです。

別の言い方をすると、「神への信頼」に生きることです。

「種々の洗礼についての教え」というのは、当時キリスト教以外の宗教でも洗礼が行われていたようです。その中でキリストの教会はキリストの名による洗礼の意味を教えたのです。

「手を置く儀式」は、教会の中で特別な務めに就く者に手を置くことです。

「死者の復活、永遠の審判」というのは、使徒信条でも「身体のよみがえり、永遠の命を信ず」と告白していますが、それと同じことです。

これらのことは、私たちの教会がしていることに譬えれば、洗礼を受ける人が受洗準備会に出て信仰の初歩についていろいろ学ぶことと似ています。そこのところに留まっていないで、成熟したキリスト者になろうというのです。

ところが、その次に驚くべき言葉があります。

6章の4節以下にこうあります。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。」

一言で言えば、信仰の初歩のところを離れなければ、あなたがたは堕落するというのです。言い換えれば、信仰は成熟する以外にないということです。立ち止まったら、キリストを十字架につけるようなとんでもないことをするのと同じだというのです。

どういうことでしょうか。

先ほど読んだ5章の11節にはこういう言葉がありました。「あなたがたの耳が鈍くなっているので」。

そして、6章の12節にはこうあります。「あなたがたが怠け者とならず」。

この「鈍くなっている」というのと「怠け者」というのとは原文では同じ言葉です。つまり、「あなたがたの耳が鈍くなっている」というのは御言葉を聞くことにおいて怠惰になっているということです。熱心に聞かないのです。聞くべきことを聞かないのです。

ある人がこの「怠け者」という言葉を説明して、これは傲慢な心を意味しているといいます。なぜわれわれは御言葉を聞いても聞き方が怠慢なのか、それはわれわれの心の中に傲慢があるからだというのです。

傲慢というのは、別の言い方をすれば、開き直っているということです。座り込んで、これでいいではないかというのです。そこでは信仰の成長は止まっています。

私たちは誰でも、牧師でも信徒でも、信仰の怠慢を指摘されることは嫌です。私たちは自分からは言うのです。「私のような至らない信仰の持ち主が…。」しかし、人が私たちに向かって、「そうですね、あなたの信仰は至りませんね、勉強し直したらどうですか」と言ったら、「はい、そうです」とは私たちは言いません。腹を立てます。

しかし、この手紙の著者は手紙を読んでいる人たちを怠け者だと決めつけているのではありません。

6章の9節以下にこうあります。「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。」

6章の10節に「聖なる者たち」とあります。これはキリスト者のことです。

その信仰の仲間たちに、以前も今もあなたがたは仕えているではないか、奉仕をしているではないかといいます。

お互いに仕え合っているといってもいいでしょう。仕え合うところには愛が働いています。その愛はあなたがたの名による愛ではない、神の名による愛だ、その愛を神は忘れておられない、たとえあなたがたが忘れても神は忘れておられない、その愛の働きを大事にしようというのです。

神は不義な方ではない、あなたがたがたとえ不義であったとしても神の義は変わらない、その神の義はあなたがたの愛の奉仕を忘れないということによって示されるのだというのです。

そのように語って、この手紙の著者は改めて勧めます。

6章の11節にこうあります。「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。」

あなたがたは悔い改めて洗礼を受けて、そこでいったい何を体験したのか。光を見た。光の子になった。素晴らしい御言葉を聞いた。そこで熱心の火を得ることができた。熱心の道を歩み始めていた。

それはそうです。私たちも洗礼を受けた頃はまことに熱心でした。その同じ熱心を深めていけばいいのです。その熱心は何に現れてくるかといえば、キリストのことを学び続ける熱心です。キリストは誰であるか、キリストは今何をしていてくださるか、そのことについていつも熱心なのです。

この手紙の著者はここで単なる小言を言っているのではありません。自分もまたキリストの光の中で歩まされている喜びを抱きつつ、自分自身が成熟している喜びを味わいつつ、私たちにも語りかけているのです。

 

私たちはこれらの言葉を私たちへの励ましの言葉として受け取りたいと思います。私たちも、キリストの前に傲慢の心を捨て、へりくだって、その御言葉を聞きながら、お互いに仕え合う愛の心をもって、日々成熟していきたいと思います。