「知恵を求めて祈る」

           ヤコブの手紙158節 

                   水田 雅敏

 

前回私たちは、試練や忍耐を通して、キリスト者は神の御心を行うことにおいて完全な者に造り上げられていくという教えを学びました。その完全な者というのは、道徳的な完全さということではなくて、いかなるときにも神の御心を捉えて、それに沿った信仰的な判断や行動ができるようになるということを意味していました。また自分だけでなく、他者の信仰の試練や戦いに対しても思いを寄せることができるようになることを意味していました。それは試練を与えてくださる神の約束であると同時にまた、私たちキリスト者の目指すべき目標でもあります。キリスト者はいつも目標途上にある者なのです。

しかし、その途上にありつつ目標に向かって前進していくことは自動的に起こることではありません。時の経過と共に自然にそれが起こるということではないのです。そのような者になるために必要なもの、それは「知恵」だというのが今日の聖書の箇所の教えです。ヤコブはこの箇所で、単に、あなたがたは知恵ある者になりなさいということを勧めているのではありません。神の御心を行うために必要な神の知恵を祈り求める者でありなさいとの祈りの勧めをしているのです。

ところで、ここで言われている「知恵」とはどのようなものなのでしょうか。一般的に知恵と言えば、生まれながらに与えられ、また育てられていくときに身につく知的な才能とか能力のことを指すことがあります。また、学問などによって積み上げられていく知識を指す場合もあります。さらには活動や体験を通して身につけていく判断力、分別、人生訓、処世術などもまた知恵と呼ばれることがあります。人間の努力によって得たものとして、それらの知恵も大きな働きをこれまでしてきました。人間の英知として人類全体の進歩に貢献するという役割も確かにこの世の知恵はしてきました。しかし、一方で、その人類の知恵が悪い方向に用いられ、悲惨と苦悩を生み出す愚かさとしての意味しか持つことのできないものもあったということを歴史は証明しています。

ヤコブはここで、そのように、ときには良いものとして力を表し、ときには悪いものとして働くこともあるような知恵を求めよと言っているのではありません。もっと別のことを語っているのです。それではその別の知恵とは何でしょうか。それはただ神からのみ来る知恵のことです。求める者に神が賜物として与えてくださる知恵のことです。その知恵は、現実をありのままに見つめながら、なおそれを超えて存在する神の御心を捉えようとするものです。現実をありのままに見つめながら、背後に隠されている神の御心を捉えて、それに従って決断し行動を起こさせる、そういう知恵のことです。そういう知恵によるならば、現実の中にありながら、なお現実から自由にされることができる、そして人間の可能性を超えて、神の可能性を信じて行動を起こすことができる者とされる、それがこの知恵の持つ力です。

それは、どんなに困難な中にあり惨めな姿しか持ち得ない自分だったとしても自分を愛することができる、自分に与えられている地上の生を大切に考えることを可能とさせる、そういう知恵です。つまり、その知恵は生きていることを喜ぶことができる者とさせるものだと言ってもよいでしょう。さらにまた、苦しみや艱難を抱えている他者を見るとき、その人の力を超えた神の力がそれぞれの戦いを終わらせてくださり、それぞれに、ついには平安と静けさを与えてくださることを信じて、祈り、仕えることを可能とさせるもの、それが私たちに「求めなさい」と命じられている知恵の内容であり性格です。

ヤコブは5節で、「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば…神に願いなさい」と命じています。そして、「そうすれば、与えられます」と神の約束をも明らかにしています。 神から来るもの、神のみが与えてくださる賜物、そういう知恵であるからこそ、私たちは神に求める以外にそれを自分のものとすることはできません。

「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば」とありますが、本来、人は皆この知恵において乏しい者、いや、この知恵を持っていない者と言うべきでしょう。だからこそ、すべての者にこの知恵を神に願い求めて祈ることが必要なのだということがここで明らかにされているのです。神に祈ることを知っていることそのものが、既にその知恵の大切な一部を神から与えられているということのしるしであるということです。ですから、私たちはこの祈りの知恵を用いて、さらに大いなる知恵を与えてくださる神に祈り願うべきです。私はこの世の知恵は十分に持ち合わせていませんが、しかしあなたに祈ることは知っています、そしてあなたは求める者に応えてくださるお方であることも知っています、そういう信仰のもとに祈ることをヤコブは勧めているのです。

イエス・キリストの名こそここでは用いられていませんが、しかし、イエス・キリストが教えてくださったことを、ヤコブは自分の言葉で私たちに語りかけ、思い起こさせてくれているということは明らかです。ルカによる福音書の11章の9節以下でイエス・キリストは次のように教えてくださっています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、開かれる。」少し飛んで、13節にこうあります。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」聖霊とは私たちに御言葉を理解させる力であり、信仰によって物事を判断させる力であり、また、イエスこそ主なるキリストですと告白させる力です。それと同時に、現実のただ中でキリスト者としていかに生きるかの道を指し示してもくださいます。

このイエス・キリストの教えと約束との関連でヤコブの言葉を理解するならば、「知恵を願い求めなさい」というのは「聖霊の助けを願い求めなさい」ということと内容的には同じです。そしてその祈りに対する答えは、イエス・キリストも、ヤコブも、「そうすれば、与えられます」ということにおいてまったく同じであることが分かります。

ところで、そのような私たちの祈りの対象であり、祈りに応えてくださる神とはどのようなお方なのでしょうか。ヤコブは5節でこの神のことを次のように言っています。「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神」。まず、「だれにでも」と言われているのは「求める者にはだれにでも」ということです。ただし、6節に「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」と言われていることを、私たちは同時に考えなければなりません。神は必要なものを与えてくださるという信頼に基づいて、いささかも疑わずに祈り求める者に対して、だれにでも神は与えてくださる、その約束が書かれているのです。出し惜しみすることもなさらず、そんなものをも求めてくるのかと私たちの貧しさや足りなさを恥じたり責めたりすることもなさらずに、何の条件も取引もなさらずに、私たちに必要な知恵を与えてくださる、それが神だということです。私たち人間が人の求めに応じて何かを差し出すときに、出し惜しみしたり、条件を付けたり、見返りを求めたりするのとはまったく違うのです。与えてくださる神であり、求めに応じてくださる神であり、信頼を裏切られることのない神、その神が、厳しい現実の中で真実に生きようとする者、知恵を求める者に必要な知恵を与えてくださらないはずがないということが語られているのです。

私たちの神は、ひたすら与えることが本質であられるような神です。そうであるならば、私たち人間はその神にひたすら祈ることを本質とすべきでしょう。祈るということ、これはまったく単純な行為です。しかしまた、神が許してくださった尊い行為です。教会生活の長い短いに関係なく、これなしには、試練を神からのものと受け止めることも忍耐することも、さらに御心に適って成長していくこともできなくなってしまうもの、それが祈りです。神はその祈りに応えて必要なものを与えてくださる、この信頼が、与えようとして用意していてくださる神に対して持つべき大切なことです。それは「疑わずに祈りなさい」ということと同じです。

ヤコブは「疑いつつ祈る者には神は何もお与えになることはない」とさえ言います。では、疑いつつ祈るとはどういうことなのでしょうか。8節を見ますと、「心が定まらず」という言葉で、その疑いつつ祈る一面が語られています。「心が定まらず」という言葉は口語訳聖書では「二心の者」となっていました。一方で神を信じていると自分のことを認めながら、他方で神を信じることの愚かさや頼りなさをも心に抱いている人です。そういうあり方が疑いつつ神に祈るということです。

ヤコブはそのように疑う者を、6節で、「風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」と言っています。そういう人は、あてどなく、休むこともなく、上下に、前後に揺れ動く海の波のように、自分の生き方全体に安定を欠くものとなってしまうのです。なぜなら、7節に、「そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません」とあるとおり、この地上においてキリスト者として生き抜く知恵を神からいただくことができないからです。

私たちは今、このヤコブの言葉を聞きながら、私たちが住み、生きているこの世界のために、他者のために、そして自分自身のために、心から神を信頼して知恵を求めて祈ることがキリスト者の大きな責任であることを覚えさせられます。その知恵が与えられるならば、人間の世界の様々な暗さや醜さや希望なき状況もいつかは解消されるに違いありません。なぜなら、人間自身の中にその可能性はありませんが、神が与えてくださる知恵の中にその可能性が秘められているからです。この世がこの知恵を求めることを知らないならば、この世に代わって、この世のために、神の栄光のために、教会は、キリスト者は、ひたすらこの知恵を求めて祈るこの祈りに生きるのです。

 

誰もが揺れ動く波のような信仰の中に置かれています。しかし、それをよしとしないで、そのような状態から少しでも安定した信仰へと進んで行くことを神は求めておられます。分かれた二つの心が、ただ神に向かって一つに重なっていくようになることを神は求めておられます。そのことのために私たちは知恵を求めて祈らなければなりません。その知恵を神は備えてくださっています。それを祈り求めることを怠らないのがキリスト者の生き方です。祈り求めることを怠らないキリスト者の祈りがこの世をも変える。それが知恵を与えてくださる神の約束です。