「約束されたもの」

               ヘブライ人への手紙113240

                                  水田 雅敏

 

今日、私たちに与えられました聖書の箇所はヘブライ人への手紙の11章の32節から40節です。

32節にこうあります。「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。」

考えてみますと、このヘブライ人への手紙の11章で語られていることは随分大胆な企てです。なぜなら、私たちの聖書で千ページを越える旧約聖書を僅か二、三ページに纏めているからです。おそらく旧約聖書に書かれている物語をこの手紙の読者が思い起こしてくれることを期待してこれを書いたのでしょう。

なぜ、ここに、旧約聖書に登場する人々の名前が挙げられているかといいますと、この手紙を読む者が彼らの名前を知っているからです。「ああギデオンか、それならわたしも知っている」と思った人もあるでしょう。あるいは、「なぜここにエフタなどという人の名前が出てくるのか」といぶかりながら考えた人もあるかもしれません。

私たちもこういう所を読むと旧約聖書を改めて開きます。

なぜそのようなことをするのでしょうか。なぜそのようなことを今でも続けるのでしょうか。

ここに書かれているのは信仰の歴史です。

この手紙の読者は皆が皆ユダヤ人ではありませんでした。むしろ異邦人のほうが多かったかもしれません。ある人は「この手紙の読者はローマの教会の人たちだったのではないか」と言っています。首都ローマのことですから、ローマ人、ギリシア人、あるいはアフリカからやって来た人たちもいたかもしれません。そういう人たちが教会の仲間入りをして、新鮮な思いで旧約聖書の物語を聞かされたのです。そして、自分たちもこの信仰の歴史の流れの中にあるという誇りをだんだんと身に着けていったのです。

私たちもその信仰の歴史の流れの中にある者たちです。この手紙の読者たちと同じ信仰の歴史を受け継いでいるのです。ここには私たちの信仰の歴史が書かれているのです。

この32節以下を読んでみると、おそらく多くの人がこう思うのではないでしょうか。「ここに書かれているのは勝利の歴史ではなくて、むしろ敗北の歴史ではないか。」

勇ましいことも書いてあります。国々を征服したとか、正義を行ったとか、約束されたものを手に入れたとか、獅子の口をふさいだとか、燃え盛る火を消したとか。

けれども、これらはどちらかというと初めのほうに書かれていることであって、最後の38節に至るとこう書かれています。「地の割れ目をさまよい歩きました。」

表を歩くことができなくなってしまったのです。ようやく地の割れ目、地面の下に姿を隠すように、しかも「さまよい歩いた」という所でこの信仰の歴史は終わっているのです。苦難の中から歩み始めて、遂に栄光に達したというのではないのです。低く低く降りて、これ以上低い所まで、行かれない所まで行っている姿を書いているのです。

けれども、考えてみますと、ユダヤの人々の信仰の祖先アブラハムがそうでした。アブラハムもまた地をさまよって、約束の地を求めて尋ね歩きました。

しかし、ここではアブラハムよりもっと状態が悪いのです。アブラハムは約束の地に辿り着くことができましたけれども、ここでは約束の地に達していないために地の割れ目しか歩くことができなかったというのです。

なぜなのでしょうか。

38節の終わりにこうあります。「世は彼らにふさわしくなかったのです。」

「ふさわしくなかった」。これのもとの言葉は「値打ちを持たなかった」という意味の言葉です。価値がなかったのです。

私たちは時々、「価値観」という言葉を口にすることがあります。「あの人は私とは価値観が違うから話が合わない。」

信仰を持っている人の価値観からすると、この世はそのまま生きるに値するものではなかったのです。もちろん、この世に意味がないというのではありません。この世は神がお造りになったものです。アブラハムも家族を持ちました。その幸いに与りました。

しかし、そのこの世の生活をこの世だけのものとして値打ちを計るのではなくて、それを超えるまなざしをこの信仰者たちは持っていたのです。

少し先になりますけれども、12章の2節にこういう言葉が書かれています。「このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て」。喜びに徹して生きたはずの主イエスが、目の前にある喜びをお捨てになったというのです。

これは何を意味するのでしょうか。

主イエスもまたこの世の喜びを自分のすべてを定める価値とはなさらなかったということです。

何を価値あるものとするかということが私たちの行動を決めます。私たちの生きる姿を決めます。人の姿を見ていますと、この人がいちばん大事にしているのは何であるかが分かる時があります。この人にとっていちばん大事なのはどうも車らしいという人もいるかもしれません。子供だけだという人もあるかもしれません。何か大事なものを集めることだけに熱中して、ほかには値打ちを置いていないように見えるという生き方もあるかもしれません。そのような私たちの生き方を決めているものは何かということです。そして、その生き方を決めていることが私たちの歩みに見えてくるから、信仰を持っている人間はこの世ではさまよい歩くだけだということになるのです。

それは、私たちは地上にあって地上に縛られず、天にあるものを仰ぎ見るということです。この世に来てくださった主イエスは、人間はこの世のものだけに縛られて真実の幸せに生きることはできないということを教えてくださいました。その主イエスを仰ぎ見る時に私たちの生き方は定まるのです。

今日の聖書には不思議な所があります。それは、33節では「約束されたものを手に入れ」と書きながら、39節では「約束されたものを手に入れませんでした」と書いていることです。原文を読みますと、33節の「約束されたもの」というのは複数で書いてあります。それに対して39節の「約束されたもの」というのは単数です。しかも定冠詞が付いています。明確にそれと指し示すことのできる一つの約束なのです。この世の様々な約束のものは手に入ったかもしれないけれども、いちばん肝心の約束のものは手に入らなかったというのです。

では、その肝心の約束のものとは何でしょうか。

それは主イエスの到来によって初めて明らかにされたもの、主イエスの十字架の救いです。その恵みに私たちは与ることができるし、できたのです。

40節にこうあります。「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださった。」

「わたしたちは、これらの人々にまさるものをいただくために、あらかじめ神の計画の中にあったのだ。それを感謝して受けようではないか。わたしたちの信仰の先輩たちのためにも、そして、これからわたしたちに続く者たちのためにも、わたしたちの信仰の歴史を造っていこうではないか。」そう呼びかけているのです。

 

この言葉を、今日、私たちの心にも、改めて、深く刻みたいと思います。