「わたしたちは落胆しません」

                       コリントの信徒への手紙二 416

                                             水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の4章の1節から6節です。

パウロはここで、伝道するときの心構えについて語っています。それは七つあります。

第一は、1節の終わりにあるように、「落胆しない」ということです。こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」

伝道の話の一番始めに「落胆」ということが出てくるのはふさわしくないと思われる人もあるかもしれません。伝道というのはもっと勇ましいものであるはずだと言われるかもしれません。しかし、伝道をすることは決して易しいことではありません。簡単なことではありません。人は福音を容易に受けつけようとはしません。自分に救いが必要であることが分かっていないからです。ですから、伝道に落胆はつきものです。

自分のような者にこの務めは無理だと考えないキリスト者はおそらく一人もいないのではないでしょうか。自分はキリストによって罪を赦されていると信じることがただ一つの力になってくれるのです。

第二は、2節にあるように、「卑劣な隠れた行いを捨てる」ということです。「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。」

「卑劣な隠れた行い」とは何でしょうか。ある人がこの言葉を次のように説明しています。「それは福音の単純さを忘れて福音に飾りをつけることだ。」福音というのはもともと単純なものです。それを立派に見せるために厚化粧をしてしまうのです。

第三は、「悪賢く歩まない」ことです。「悪賢く」というのは「人間の巧みさ」と言ってもよいかもしれません。福音の純粋さを人間の手によって汚してその力を弱めてしまうのです。

第四は、「神の言葉を曲げない」ということです。伝道は相手がどう思おうが語るべきことを語らなければなりません。人の顔色をうかがって語るべきこと語らなかったり、福音にないことを語るとすれば、それは神の言葉を曲げることになります。伝道とは福音をそのまま語り伝えることです。

そうすれば、自然に「真理を明らかにする」ことになります。これが第五です。「明らかにする」とは「はっきり見えるように現す」ということです。福音というものがどういうものであるかをはっきり現すのです。

第六は、「神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねる」ということです。伝道は神が御覧になっている前で福音を人々の良心に宣べ伝えること、訴えることです。

このようなことを聞いて、ある人は、「福音を聞いた人が皆、信じるわけではないのはどうしてか」と思うかもしれません。それは、そのように言う人だけでなく、伝道する者自身が最も痛切に感じていることではないでしょうか。

それには明らかな理由があるとパウロは言います。3節から4節にこうあります。「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。」

「この世の神」とあります。これは悪魔のことです。悪魔がキリストの神と同じように神だということではありません。悪魔が人間の罪を支配していることから言えば、世の人々にとっては悪魔はまるで神のように見えるでしょう。また、罪を自覚していない人々は罪の生活を続けるために悪魔を神のように崇めているかもしれません。悪魔が邪魔をして福音の光を見ることができないのです。悪魔にとっては人々が福音を信じることは最も好ましくないことだからです。

5節にこうあります。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」

伝道するときの心構えの第七は、「自分自身を宣べ伝えるのではなく、イエス・キリストを宣べ伝える」ということです。伝道は自分自身を語ることではありません。自分自身を吹聴することではありません。伝道する者の主はイエス・キリストです。その僕はイエス・キリストを宣べ伝えます。

けれども、イエス・キリストの僕は同時にすべてのキリスト者の僕だとパウロは言います。キリスト者はお互いに仕え合う存在なのです。ヨハネによる福音書の13章には、イエスが弟子たちの足を洗う出来事が書かれています。その1節には、「イエスは…弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書かれています。このイエスの模範に倣って、私たちもお互いに仕え合うのです。

6節にこうあります。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」

「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神」とあります。これは天地創造のときに、神が「光あれ」と言われて光があったことを指しています。暗闇の中に光が与えられたあの出来事です。

 

それと共に、パウロはここで、自分の回心の出来事を思い起こしていると思います。パウロがダマスコへ向かって歩いている時のことです。突然、天からの光がパウロの周りを照らしました。パウロは地に倒れ、イエス・キリストの声を聞きました。そのことがきっかけとなって、パウロはイエス・キリストを信じるようになったのです。この光が人々の心の中にも輝くのです。それは天地創造のときのように、神が「光があれ」と言われるということではありません。イエス・キリストによって救いを得よ、ということです。新しい創造の出来事が始まるのです。それが伝道の目的です。