「天から来られた神の言葉」

                      ヨハネによる福音書33136

                                                  水田 雅敏 

 

ヨハネによる福音書を読んでいて戸惑うのは、時々それがいったい誰の言葉であるのか分からなくなるということです。

今日の箇所もそうです。そのまま読むと、30節の洗礼者ヨハネの言葉、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉に続くものとなっています。

しかし、それは形の上でのことであって、その内容を見れば、これは洗礼者ヨハネの発言であることを超えています。

聖書学者の研究によれば、ここには福音書記者ヨハネが属していた教会の信仰の告白が言い表されているといいます。

そうであるとしても、何だか難しそうな言葉が並んでいるので、ここから説教をするのはどうかとも思いましたが、注意して読んでみると大変大事な言葉が語られていますので用いることにしました。

今日はいつもとは違う角度から話してみたいと思います。

ある人が「誰かを知る知り方には二通りある」と言いました。

一つは、その人を外側から観察する方法です。こういう目つきをしている。手はごつごつしている。これくらいの背丈で、このくらいの体つき。そのように、その人に関する客観的な情報を集めてその人を知ろうとするのです。ですから、そこには人格的な触れ合いはありません。その人が私に対してどう思っているかは分かりません。

もう一つの知り方というのは、その人と直接話をし、その人の言葉を聞く方法です。それによってその人を知るのです。それはその人を周りから観察するような知り方とは違います。そこには人格的な触れ合いがあります。その人が私のことをどう思っているのかということを、その人の言葉を通して直接知るのです。ですから、そのためには信頼関係が必要です。この人はこんなことを言っているけれども、嘘を言っているのではないかということでは、その人を知ることはできないでしょう。

どうしてこんな話をするかと言いますと、実は私たちが神を知るという時にもこの二通りの方法があるからです。

私たちはいったいどちらの方法によって神を知ろうとしているのでしょうか。

ある人は、誰かを客観的に観察するように神に関する情報を集めてみようとするかもしれません。こんなに美しい自然が存在するということ、これはとても偶然にできたとは思えない。やはり造り主なる神はおられるのだろう。いや、おられるに違いない。そういう考えに到達するかもしれません。

あるいは、哲学的に究極の価値について考えていけば神がどういう方であるかという考えに到達するかもしれません。古代のギリシアの哲学者は常にそうしたことを考えていました。

しかし、それらは補助的には有効かもしれませんが、そこには人格的な触れ合いがありません。出会いがありません。何か神らしきものに到達したとしても、それは一つの考えであって、生きた神そのものとは言えないでしょう。

聖書の神を知る知り方というのは、実は、もう一つの方法、人格的な触れ合いの中で直接その方の言葉を聞くことによって知る知り方なのです。

そんなことが果たして可能なのかということになりますが、イエス・キリストを通してそれが可能になったのだと聖書は告げています。

今日の箇所の34節にもこう記されています。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が〝霊〟を限りなくお与えになるからである。」

このイエス・キリストを通して私たちは神を知るのです。

先ほど、誰かを知る時の二つ目の方法、つまり、その人が直接語るのを聞く時には信頼関係がなければならないと言いました。それは神を知る時にも同じです。神がイエス・キリストを通して真実を語っておられるという信頼、信仰がなければ、それは通じません。

ところが、32節にはこういう言葉が記されています。「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。」

せっかく神がイエス・キリストを遣わして御自分の意志を伝えようとしておられるのに、人はそれを受け入れようとしないというのです。もう救いがそこまで来ているのに、それを受け取ろうとしないのです。

ところが、続けて読んでみると、33節にはこう書いてあります。「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。」

これはその前の「だれもその証しを受け入れない」という言葉と矛盾するように思えます。しかし、そこが聖書の不思議なところです。

人間の知恵によって測れば、そんなことはあり得ないのです。この世に生まれた一人の人間が実は神の独り子であった。そのお方が神の言葉そのものであり、その人の生涯に神の意志が証しされているなどというのは、馬鹿げたことでしょう。ところが、そこを乗り越えて受け入れることができたならば、世界が全く違って見えてくるのです。

32節には「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が〝霊〟を限りなくお与えになるからである」とありました。「〝霊〟」の働きは神の言葉を話される側だけでなく神の言葉を聞く側にも必要です。私たちはそれを祈り求めなければなりません。その結果、それまでどうしても理解できなかったことが分かるようになる、受け入れられるようになるのです。

あるエピソードをご紹介します。20世紀にカール・バルトという神学者がいました。彼の神学の出発点となった一つの話です。

1910年代、バルトが神学を始め、牧師になった頃の神学というのは、歴史的な知識とか、批評的な考えとか、そういうものを用いて、イエス・キリストに近づくことができると考えられていました。別の言葉で言えば、科学的な神学と言ってもいいかもしれません。そして、ルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちが行ったようないわば霊的な聖書解釈を時代遅れのものとして見ていました。

しかし、科学的な神学はやがて第一次世界大戦の勃発に対して全く無力であることが明らかになり、バルトは大きな失望を味わいます。

そこで、バルトは新たな神学の方法を求め、ローマの信徒への手紙の注解書を書くことにしました。

バルトはその後、さらに二年間かけて全面的に書き直し、1921年に第二版として出版しました。

第一版が出たあと、バルトに対していろいろな人が質問しました。「あなたはこの本を書くに当たって、どこに重きを置いたのか。その中心は何なのか」と。

それに対してバルトは第二版の序文でこういうふうに答えています。「『神は天にいまし、あなたは地上にいる』。この神のこの人間に対する関係、この人間のこの神に対する関係が私にとっては最も重要なテーマである。」

「神は天にいまし、あなたは地上にいる」というのは旧約聖書のコヘレトの言葉の5章の1節の言葉です。これが実は聖書を聖書として読み解く鍵なのです。

今日の聖書の31節にもこう記されています。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。」

私たち人間が、神について知る、神について学ぶ、神について語るとすれば、それは地上にあって天を見上げるようにしか知ることができない、学ぶことができない、語ることができないはずです。

例えば、神が人を造られたということも、私たちは地上から天を見上げるようにして、造られた者として、造り主について語るようにしか語ることはできません。神が人を造られたということを外から客観的に眺めて、第三者的にそのことについて語ったとしても、それは本当の神について語ったことにはならないでしょう。それは神らしき何ものかかもしれませんが、生きた神、自分を造った神ではありません。

しかし、この31節は、私たち人間の限界についてのみ語っているのではありません。その天と地の間にイエス・キリストが道をつけてくださって、はっきりと天におられる神の意志というものを私たちに伝えてくださった。それを通して私たちは神を知ることができるようになった。そういう恵みの事実についても語っているのです。

 

私たちにはイエス・キリストという確かな導き手がおられます。このお方に支えられつつ、私たちは信仰の道を歩んでいくのです。