「万民のための救い主」

                 ルカによる福音書22238

                                                                                                      水田 雅敏 

 

クリスマス、おめでとうございます。皆さんに神の祝福がありますように。

今日の箇所にはシメオンという人とアンナという人が登場します。

シメオンは、エルサレム神殿において、両親に伴われて宮参りに来ていた幼子イエスに出会って、「この方こそ、自分が神の約束に基づいて待ち望んでいた救い主である」ということを告白した人です。

25節から26節にこうあります。「エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」。

ここにはシメオンの特徴が幾つか書かれています。

その一つは、彼がイスラエルの慰められるのを待ち望んでいた、ということです。

シメオンが幾つぐらいの人で、このあと何年生きたのかは分かりません。29節の「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉などから推測できることは、彼の残りの生涯はそう長いものではなかっただろうということです。

おそらく、そのような人々にとって心の中の大部分を占めるのは、過去の出来事であり、それにまつわる記憶や思い出なのではないでしょうか。それらに対して自ら評価し、それによって自分の人生に意味があったとかなかったとか、そういう判定を下してしまうのです。

しかし、ここに登場しているシメオンは、過去に目を向けて、その中に浸るのではなくて、逆に未来に目を向けて、神の約束の実現を待ち望む希望の人として描かれています。

その希望の内容は、主なる神が遣わすメシア・救い主に会うまでは決して死なない、ということでした。それは裏を返せば、シメオンは死ぬ前に必ず救い主を見ることができるという約束を与えられていたということです。その希望をもって、シメオンは日々を過ごしてきたのです。神の約束に信頼を寄せながら生きてきたのです。

これがシメオンを第一に特徴づけている事柄です。

このことは私たちにどのように関わってくるでしょうか。私たちにとって年を重ねてもなお変わらずに持ち続けることのできる希望は、神が準備してくださっている天の故郷に迎え入れられることです。地上における私たちの様々なものは次第に弱り、衰えていきます。しかし、天には朽ちることのない住みかが用意されているのです。

これは神の約束であるからこそ、私たちは年を重ねてもなお、その希望をますます確かなものとして持ち続けることができます。私たちもまた、死ぬまで希望の人であり続けることができるのです。

私たちは既に、救い主がどなたであるかを示され、その方を信じることができる者とされています。この信仰は将来の約束、つまり、死のあとに起こる事柄についての約束をも固く信じさせます。その信仰が私たちに希望と平安をもたらします。その希望と平安をもって、私たちは許された日々を送ることができ、また、やがて来る自分自身の終わりの時を迎えることができる者とされるのです。

シメオンに関して注目したい第二の点は次のような描写です。

25節に「聖霊が彼にとどまっていた」とあります。

26節には「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」とあります。

そして27節には「シメオンが〝霊〟に導かれて神殿の境内に入ってきたとき」とあります

このように繰り返し、聖霊がシメオンに働きかけた、と書かれています。シメオンは希望の人であったと同時に、聖霊の人であったのです。

聖霊の人とはどういう人のことでしょうか。それは、神からの働きかけ、神からの示しを絶えず受けていた人ということです。それは別の角度から考えてみるならば、シメオンは祈りの人であった、ということです。彼は聖霊の助けを求めながら、絶えず神に語りかけ、神からの示しを受け取って過ごしていたのです。神との交わりをなし続けていたのです。

だからこそ、彼は神の考えを正しく知ることができたし、神のなさる業に正しい判断を下すことができたし、そのことについてふさわしい告白と賛美をなすことができたのです。

祈ること、祈り続けることの大切さを教えられます。

アンナという預言者もまた祈りの人でした。

37節にこうあります。「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」。

「断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」。だからこそ、彼女もまた、幼子イエスを神からの救い主として信じることができたし、神を賛美することができたのです。

シメオンも、アンナも、かなり年を重ねた人でした。「高齢になるとくりごとが多くなるにもかかわらず、この二人にはそれがない」と指摘する人がいます。くりごと、すなわち愚痴とか呟きの代わりに、この二人の口には祈りがありました。神に語りかけ、神に問い、神からの回答を得るという、神との交わりのために、二人の時間は用いられていたのです。

「祈りつつ待っていた救い主はヨセフとマリアの腕に抱かれている幼子である」との確信を与えられたシメオンは、神への賛美を歌いました。

29節から32節にその歌が書かれています。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

ここで、シメオンははっきりと、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と歌っています。彼は神の示しを受けて、幼子イエスの中に神の救いの御業を見たのです。何という信仰の勇気でしょう。一人の変わりばえもしない幼子の中に世界の救いを見るとは。

そのことはアンナにも当てはまります。

38節にこうあります。「そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」。

この幼子イエスに対する信仰の告白こそ、クリスマスにおいて私たちに求められているもの、与えられているものです。暦の上でクリスマスを過ごしたことが、そのまま、クリスマスを迎え、祝ったことにはならないのです。「私たちのところにも、救い主イエスがいてくださる。これを用いて、神は全ての人々の救いのために働いておられる」。このことを新たに確信すること、それが真にクリスマスを迎え、祝うことなのです。

最後に31節から32節に注目しましょう。「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

ここには「イエスはすべての民の救い主であられる」との告白がなされています。シメオンは、イエスこそ、世界の人々の暗闇に希望をもたらす光であり、神の救いに至る道であることを、聖霊に導かれて確信し、神を賛美したのです。

 

私たちもイエスこそ神によって万民に与えられた救い主であることをいよいよ確信し、救いを必要としている人たちに救いの恵みを運ぶ務めに、力を注ぎたいと思います。神の愛、神の慈しみ、神の赦しの恵みを、人々のもとに届け、証しする働きを、ますます強めていきたいと思います。シメオンがイスラエルの慰められるのを待ち望んだように、私たちも、日本という国が慰められることを求め、世界が御子イエスによって慰められることを祈り願いながら、伝道と奉仕の業に励んでいきたいと思います。そのような歩みへと、私たちは今、招かれているのです。