「その名はインマヌエル」

                          イザヤ書7317

                                                  水田 雅敏 

 

もうしばらくすると、私たちはクリスマスを迎えます。

神がその独り子をマリアから生まれさせた時に、天使を通して命名された名前は「イエス」でした。さらに、この独り子は「インマヌエル」と呼ばれるということも、天使から示されました。そして、これは「主が預言者を通して言われていたことが実現されるためであった」とマタイによる福音書には記されています。

そこで語られた時の預言とは、今日の聖書のイザヤ書の7章の14節の言葉でした。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」

それでは、この預言はどういう状況で語られたものなのでしょうか。また、どういう内容の預言なのでしょうか。

イザヤ書の7章で語られている時代は、紀元前740年から730年頃のことです。北王国イスラエルと南王国ユダとが、まだ存在していた時代です。その頃、預言者イザヤは南王国ユダのエルサレムを中心に活動していました。その時の大国はアッシリアでした。アッシリアはその勢力をパレスチナまで伸ばし、北イスラエルも南ユダもその脅威にさらされていました。小さい国々は同盟を結ばなければ対抗できないほどの力をアッシリアは持っていました。

そこで、北イスラエルは隣国のアラムと手を結んで同盟国を結成しました。彼らは南ユダもこれに参加することを求め、三国同盟を築き上げようとしていました。

2節には、それらの動きを知った南ユダの王アハズの心が「森の木々が風に揺れ動くように動揺した」とあります。

アハズは国を与る者として、何とか生き延びる道を見出さなければなりませんでした。しかし、三国同盟結成の呼びかけに対して素直に応じることはできませんでした。なぜなら、他の二国の思惑は、ユダの王をアハズから別の人間にして、取扱いやすい国にしようとしていることにあるということを、彼は察知していたからです。そのような中で、アハズは不安と恐れにおののいていました。

自分の国が生き延びるための戦略を確定することができない王の姿を、私たちはアハズに見ることができます。立つべき基盤を持つことができていないのです。あるいは向かうべき方向を定めることができていないと言ってもよいでしょう。

今の時代の私たちも、いろいろな戦いを精神的・肉体的に抱えています。それにどう対処し、いかにその戦いを担っていけばよいのかが定まらないままに、アハズと同じように、森の木々が風に揺れ動くように動揺させられることもしばしばです。預言者イザヤはそのような私たちに対して、どうあるべきかを、ここで教えてくれるに違いありません。

アハズは一刻も早く自分の国のあり方を決断し、選び取らなければなりませんでした。そこで彼が出した結論は、こともあろうに、ユダの国の脅威の的となっている当のアッシリアの国と手を結ぶということでした。それによって生き延びることを図ったのです。

これに対して、預言者イザヤは激しく反対しました。その時、主なる神が「アハズに向かって語れ」とイザヤに命じた言葉が、3節から9節に記されています。

その中には私たちも聞くべき大切な言葉が含まれています。

その一つは4節の前半です。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」

これは、その場しのぎの思いつきの励ましではありません。この言葉は二つのことに基づいて語られています。一つは、アハズが今直面しているアラムとイスラエルの連合軍に対する冷静な分析です。もう一つは、これまでイスラエルを導いてくださった神への絶対的な信頼です。

4節の後半にこうあります。「アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。」

また、7節にこうあります。「それは実現せず、成就しない。」

これらの言葉は、アハズが恐れているアラムとイスラエルの連合軍について語られたもので、「彼らに対して恐れを抱く必要はない。彼らの画策はついえてしまう」ということを意味しています。こうして「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」ということの一つの根拠が明らかにされました。

さらに、イザヤは、「恐れることはない」と言われるお方は、これまでイスラエルを導き守ってくださったあの神なのだから、ということをアハズに自覚させようとしています。別の観点からいえば、「恐れてはならない」という言葉の背後には、神がイスラエルと共に歩み、彼らを守ってくださった歴史の重みがあるということです。

エジプトを脱出したあと行き先に不安を覚えるイスラエルの民に、指導者モーセは次のように語って励ましました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。…主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

このように語られ、そして自ら戦って、イスラエルの民の前に立ちはだかる様々な困難を打ち破ってくださった神と同じ神が、今、「恐れることはない」とアハズに語ってくださっているのです。アハズはこの神に信頼を置いて、この危機を脱するべきなのです。

神がアハズに向かって語れと言われた預言者イザヤへの言葉の中に、私たちはもう一つ重要な言葉を見い出します。

それは9節の言葉です。「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」

「確かにされない」と訳されている言葉は、「存続しない」という意味をも持っています。神を信じ切ることこそが、逆に、神から守られ、生きる道を確かにされ、存続を続けることができる道なのである、ということです。

私たちは目に見えるもの、手近にあるもの、即席に用意できるものに、苦しみや悩みの解決を求めがちです。それも一時的には役に立つこともあるかもしれません。しかし、その効果は短時間のうちに色褪せてしまうこともしばしばです。

一方、神に委ねるとか神に信頼することは、最も不確かであやふやなものと考えて、「苦しみの中で、わたしを呼べ」と言われる神に最終的には頼ろうとしない、そういう傾向が私たちにはあります。

そのような私たちに対しても、預言者イザヤは「神に信頼を置け。信じなければ、確かにされない」と呼びかけているのです。

御子イエスをこの世に遣わし、人間の罪を担わせて十字架の上で裁かれた神は、そのことによって、罪の赦しの道を開いてくださいました。そして、神は死んで墓に葬られた主イエスを新しい命へと復活させることによって、主に結びつく者たちの新しい命を保証してくださいました。このお方が、最終的な命と救いと平安を約束してくださっています。それゆえ私たちは、このお方に最後の拠り所を見い出すことができるのです。

アハズは、イザヤの「恐れるな」とか「信じよ」という呼びかけに対して、素直に応じようとはしませんでした。

そこで、主なる神はこうお語りになります。10節です。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

神は、御自身がユダの民と共におり、彼らを守っておられることのしるし、根拠となるものを求めてみなさい、とアハズに語ります。神はそのしるしを与えて、王と民とを励ます用意をしておられるのです。

しかし、今、神のことなど考えたくないアハズは、いかにも信心深げに「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」と言って断ります。

これは、しるしを求めてはならない、という彼の信仰から出てくる謙遜な言葉ではなくて、むしろ、神に頼ることを避け、自分の考えを優先したい、という思惑から出て来たものであるに違いありません。

神は「深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」求めよと言われました。それは、今アハズが立っている地平とは異なる次元に真の解決の道を探れということです。陰府、すなわち誰もまだのぞいたことがない死人の世界に、あるいは誰もまだのぼって行って帰って来たことがない天の世界に、真の解決を求めよということです。

これは単に視点を変えて考えてみるということ以上のことを含んでいます。徹底して人の思いを遥かに超えたお方である神に問え、神に求めよということなのです。そうする時、今、立っている地平でなすべきことも見えてくるであろうと言われるのです。

人間の問題は、人間のレベルでのみ考えるのではなく、神の中に答えを見い出そうとせよ、そうすれば必ず答えが与えられる、との神の約束がここにあります。

しかし、アハズはそれを断りました。

そこで、神自らユダの国を守るしるしを与えると言ってイザヤを通して示されたのが、14節から17節の「インマヌエル預言」です。

その内容はおおよそ次のようなことです。アハズ王や預言者イザヤの時代に、一人のおとめが身ごもって男の子を産む。その名は「インマヌエル」と呼ばれる。この名は普通の名ではないものであって、特別な意味を持っている。それは『神はわれわれと共におられる』という意味であって、神がユダの民を守り、危機から救ってくださることが約束されているものである。

やがてこの預言は、究極的には救い主の誕生を指し示していたものだとユダヤの人々は理解しました。そして、御子イエスのお生まれの時にこれを思い出し、これを御子に当てはめて考えました。最初に語られてから七百年余りの年月のあとにこの預言が成就した、とユダヤの人々は見るのです。

神はその約束をお忘れになることはなかった、との喜びと信頼に満ちた信仰の表れを、私たちはここに見ることができます。神はその約束をお破りになることはありませんでした。

「インマヌエル」「神はわれわれと共におられる」。誰かと共にいるということは、愛と守りの一つの顕著な形であると言ってよいでしょう。聖書には神が御自身の民と共にいてくださるとの約束が満ちています。

この「共にいてくださる」ということは、かりそめの時のことではありません。神のご都合のよい時だけではありません。継続的であり、あらゆる状況においてのことなのです。

危機と恐れの中にあるアハズは、この神を新しい目をもって見つめるべきなのです。「神がわれわれと共におられる」という時の「われわれ」の中に、アハズは自分自身が含まれていることに気づかなければなりません。

それと同時に、ここにいる私たち一人一人も、この「われわれ」の中に含まれているのです。私たちはどのような状況に置かれても、たった独りで、それに耐え、そこでの課題に取り組まなければならないのではありません。神が共にいてくださるのです。神が共に戦ってくださるのです。

そのような神がいてくださることは、私たちにとって力と希望の拠り所となるだけでなく、私たちの隣人にとっても限りない力と慰めになるでしょう。

 

このような、われわれと共にいてくださる神が、御子イエスにおいていっそう鮮やかに御自身を現してくださった出来事、それがクリスマスなのです。