自分の十字架を背負う

       マタイによる福音書16章13~28節

            水田雅敏

 

この箇所は主イエスの公の生涯において大きな分岐点になる所です。21節に「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」とあります。十字架への道をはっきりと明らかにされたのです。

私たちは今、レントの期節を過ごしていますが、主イエスの十字架をどれほどのことと

して捉えているでしょうか。よく教会では、「イエスさまは私の罪を贖うために生まれてくださった。本当なら私が十字架にかからなければならなかったのに、イエスさまが代わりにかかって死んでくださった。神さまはそれほど私たちを愛してくださっている」というようなことが言われます。それはそのとおりです。しかし、その恵みを単に、「私が受けなければならなかった罰を代わってくれて、ありがとう」とか、「イエスさまが私の身代わりとなって死んでくれたから私は救われた。お陰で安心して天国に行けます」などのひと言で片づけてしまっているとしたら、それは違います。もし私たちが主イエスの十字架をそのようなものとしてしか受けとめていないのであれば、私たちはその恵みを極めて安価な恵みに歪めてしまっていることになります。また同時に、主イエスの命そのものを軽んじてしまっていることになります。

確かに、私たちの命は主イエスの命に代えられるほどに尊いものとされています。神は御子イエスの命をお与えになるほどに私たちを愛してくださっています。しかし、だからといって、御子の命は犠牲になってもかまわないというような軽いものではありません。御子の命もまた神が私たちの命を愛されるのと同じように尊いものなのです。

主イエスは十字架に引き渡される夜、血の滴るような汗をかきながら神に祈られました。苦しみもだえながら祈られました。そのことは、その祈りを聞いていた神にとっても苦しみの時であったはずです。主イエスの十字架は神にとってもはらわたをえぐられるような心痛む時だったはずです。その主イエスの命によって私たちは新しい命、永遠の命を与えられました。そのことを思うなら、ただ単に「イエスさま、ありがとう」だけでは済まないはずです。

その主イエスが私たちに呼びかけておられます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。私たちが背負う十字架、それはそれぞれ持って生まれた困難な状況とか、人生に降りかかってきた苦労や辛さを受け取ることを意味するのではありません。私たちが背負う十字架、それは主イエスの命の重さです。そしてその重さは同時に、神が私たちを愛する愛の重さでもあります。

 

その自分の十字架を背負っていく中で、私たちは神が与えてくださっている高価な恵みに気づき、その愛の大きさ、その愛の深さに涙しながら、「あなたこそ私の救い主です。あなたにこそ私は従っていきます」と告白していくのです。その志しを新たにする期節、それがレントなのです。