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「イエス・キリストを証しするもの」
ヨハネによる福音書5章31~47節
水田 雅敏
前回、私たちは、イエス・キリストとはいったいどういうお方であるかということを三つの点から学びました。それは、第一に、父なる神と一体のお方であるということ、第二に、命と復活の主であるということ、第三に、裁きの権能を授かっておられるお方であるということでした。
イエス・キリストがそのようにご自分が神の御子であるとおっしゃったので、ユダヤ人たちは激しく怒りました。彼らは「いったい何を証拠にそんなことを言うのか。誰がその証人なのか」と食ってかかろうとしたのでしょう。
それで今日の箇所においてイエス・キリストは、ご自分が神の御子であることを証しするものは何であるのかということについて話し始められます。
今日もまた三つのポイントに焦点を当てながら、そのことについて考えていきたいと思います。
第一に、イエス・キリストを証しするのは父なる神御自身であるということです。
31節から32節でイエス・キリストはこうおっしゃっています。「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。」
これは証言というのが自分以外の誰かによってなされなければならないという当時の裁判のやり方を前提にしています。
ちなみに申命記の19章の15節にこういう律法が記されてます。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」
これは、証言というのは自分がそうであると言い張ってもだめだ、「証言」と言う限り、誰かその人以外の証言が必要だということです。
イエス・キリストはこのような律法を前提にして話を進めておられます。それは、自分は自分で神の御子であると言い張っているのではないということ、自分には二人以上の証しがあるということです。そして、「わたしについて証しをなさる方は別におられる」と言って父なる神をほのめかし、「その方がわたしについてなさる証しは真実であることをわたしは知っている」というのです。
もちろん、これは当時のユダヤ人たちが納得するはずのないことです。彼らはむしろその点をついてイエス・キリストを攻撃しようとしているのですから、父なる神がイエス・キリストを証ししているというのは、とんでもないということになります。
もちろん、イエス・キリストはユダヤ人たちがどんな答えを求めているかご存じでした。「あなたがたが求めているのは目に見える人間的な証しだろう。それならば、実はわたしにだって確かにある」と言って洗礼者ヨハネを引き合いに出します。
33節にこうあります。「あなたがたはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。」
イエス・キリストが「わたしについて証しをなさる方は別におられる」と言われた時に誰もが真っ先に思い浮かべたのは、この洗礼者ヨハネでしょう。
確かに、ユダヤ人たちとの議論であれば、ヨハネこそ最もふさわしい証人であったでしょう。しかし、イエス・キリストはそのヨハネさえも自分の証人には数えられないとおっしゃいます。
34節にこうあります。「わたしは、人間による証しは受けない。」
それは、イエス・キリストが神の御子であるということは、ヨハネがそれを証言するかどうかにかかっているのではないということです。
洗礼者ヨハネは「ここに真理がある」と言ってイエス・キリストを指し示しました。しかし、もしもヨハネがそれをやめたとしても、イエス・キリストは神の御子であることをやめるわけではありません。
ヨハネに限らなくてもいいでしょう。私たちは「イエスは主である」と告白し、それを自分の生き方でもって証ししようとします。しかし、たとえ私たちがそれをしなくなったとしても、「イエスは主である」ことに変わりはないのです。イエス・キリストが救い主であり、神の御子であるということは、そういう人間の証しを超えたところにあるのです。
36節の「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」とはそういうことです。そして、それは第一には父なる神御自身であると言われたのです。
しかし、神は見えない存在であって、それだけではユダヤ人にとっては証しとは言えないようなものです。そこでイエス・キリストは二つ目の証しとして、ご自身の「業そのもの」を挙げられます。
36節にこうあります。「わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」
それではイエス・キリストの「業」とは何でしょうか。
洗礼者ヨハネが捕らえられて牢に入れられた時に、彼は本当にイエス・キリストが来るべき救い主であるのか不安になりました。そこで彼は自分の弟子たちをイエス・キリストのもとに遣わして、こう尋ねさせました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
それに対してイエス・キリストはこうお答えになりました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
それらの業がわたしが誰であるかを証ししていると言われたのです。
イエス・キリストの業ということで私たちが何よりも思い起こすのは、十字架のイエス・キリストです。イエス・キリストは十字架にかかられた時に、「十字架から降りてみろ。そうすれば、お前が神の子であると信じてやる」と人々から嘲られました。
しかし、イエス・キリストは、十字架から「降りる」という業によってではなく、「降りない」という業によってご自分が神の御子であることを証しされました。十字架から降りたら私たちの罪を贖うという愛の業が成し遂げられなくなるからです。ここに私たちはイエス・キリストの究極の業を見ることができます。
イエス・キリストが挙げられた三つ目の証しは聖書です。
39節にこうあります。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」
ここで言う「聖書」とは旧約聖書のことです。旧約聖書には「イエス・キリスト」という名前は出てきません。しかし、キリスト教では、旧約聖書もまたイエス・キリストについて間接的に証しをしている書物として捉え、直接イエス・キリストについて証しをしている新約聖書と共に大事にします。
詩編の40編の8節から10節にこういう言葉が書かれています。「そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み あなたの教えを胸に刻み 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え 決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。」
ここで語られている「わたし」というのは、直接的にはイエス・キリストのことではありません。しかし、私たちはこれを読む時に、「ああ、イエス・キリストがこの詩人の口を通して語っておられるのだ」と受け止めることができるのではないでしょうか。
私たちはこの時代の人々と違って新約聖書も持っています。そして、それは何よりもイエス・キリストが愛に満ちたお方であることを証ししています。
45節でイエス・キリストは「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない」と言われました。
訴えるどころか、イエス・キリストは命を張って人間をかばってくださったと言えるでしょう。
讃美歌21の484番は「主われを愛す」という賛美歌です。801ページの上の段には「主われを愛す」の従来の歌詞が載っています。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す。」
これはとてもよい歌詞で私たちの心に響くものですが、実は原文にある大事な言葉が省略されています。それは「聖書はわたしにそう告げている」という言葉です。
そこで下の段の口語訳の歌詞ではこうなっています。「愛の主イエスは 小さいものを いつも愛して 守るかたです。聖書は言う、イエスさまは 愛されます このわたしを。」
これは、聖書はいったい私たちに何を証しし、何を告げているかということを端的に言い表しています。それは、イエス・キリストは私を愛しておられるということです。
この愛に支えられ、導かれて、私たちは、この週もまた、それぞれの生活の場へと遣わされていきたいと思います。
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