「永遠の命への招き」

                      ヨハネによる福音書31121

                                                 水田 雅敏 

 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

ヨハネによる福音書の3章の16節のこの言葉は代々のキリスト者によって愛されてきた聖句の一つです。皆さんの中にもこの言葉を暗唱しておられる方がおられるのではないかと思います。

宗教改革者のルターはこの言葉を「小福音書」、小さな福音書と呼びました。聖書のメッセージをひと言で言い表したような言葉であるからです。

この言葉はしばしばクリスマスの期節に読まれます。「神はその独り子をお与えになった」の「お与えになった」という言葉は、何よりもまずクリスマスのメッセージを端的に語っているからです。「神はこの世を愛された。そこに住む人間を一人一人愛された。だから、人間が自分の罪のために滅んでいくのをよしとされなかった。そのために最愛の独り子をこの世にお遣わしになった」ということです。

この「お与えになった」という言葉にはもう一つの意味があります。それは「死に引き渡された」ということです。神がその独り子をお与えになるということはただ単にこの世にお遣わしになるということだけではありませんでした。死に引き渡すことを覚悟でお遣わしになったということです。もっとはっきり言えば、十字架にかけるためにお遣わしになったということです。

ですから、この言葉はクリスマスの福音を語ると同時に受難節の福音をも語っており、その向こうにはイースターが垣間見えています。そうであるがゆえにこそ、この言葉は福音書全体の要約であり、それゆえにこそルターはこれを「小福音書」と呼んだのです。

そのようにこの言葉はそれだけで独立したものとして読んでも大変意義深いものですが、この言葉にも前後の文脈があります。ただし、それらは必ずしも分かりやすいものではありません。どちらかというと難解です。それらの言葉も幾つか見てみましょう。

まず、14節から15節です。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

「人の子」というのは、主イエスのことです。「上げられる」というのは復活、あるいは昇天の意味も含まれていますが、ヨハネによる福音書ではむしろ十字架の上に「上げられる」という意味が中心です。

「モーセが荒れ野で蛇を上げた」というのは旧約聖書の民数記の21章に記されている出来事です。自分の罪のために死ぬべき人間がモーセの掲げる青銅の蛇によって死ぬことを免れ、命を得たのです。命を得たといっても、しかし、それは一時的なものです。その効果には限界があります。

それを引き合いに出しながら、ヨハネによる福音書は主イエスの十字架を指し示すのです。しかし、こちらは一時的なものではありません。信じる者が皆、永遠の命を得るのです。

13節にはこういう言葉があります。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」

この「天から降って来た者」、「天に上った者」という表現を読みますと、創世記の28章に記されている「ヤコブの梯子」と呼ばれる物語を思い起こす方もおられるのではないでしょうか。

ヤコブはアブラハムの孫でありイサクの息子です。ある野原でヤコブは不思議な夢を見ます。それはこういうものでした。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」

階段が「天から地に」伸びているのです。その逆ではありません。本来、天と地は全く別の世界であり、地上から天に至る道はありません。

バベルの人々は天まで届く塔のある町を建設しようと計画しましたが、その計画は神によって打ち砕かれました。もしも天と地に道がつけられるとすれば、それは天から地に向かってつけられる時にのみ可能なのです。

このヤコブの夢は主イエスにおいて起こった出来事を指し示しています。主イエスは天から降って来て、そしてまた天に上って行かれました。それはただ単にこの世界をご覧になるためではありません。神が愛であるということを身をもって表し、十字架に引き渡されるためです。

葬儀の際によく歌われる賛美歌の一つに『主よ、みもとに近づかん』という歌があります。1954年版の320番はこういう歌詞になっています。「しゅよ、みもとに 近づかん、のぼるみちは 十字架に ありともなど 悲しむべき、主よ、みもとに 近づかん。さすらうまに 日は暮れ、石のうえの かりねの 夢にもなお 天を望み、主よ、みもとに 近づかん。主のつかいは み空に かよう梯の うえより 招きぬれば、いざ登りて、主よ、みもとに 近づかん。」天からつけられたその道を通って、私たちもまた天へと至ることができる、それは主イエスの十字架によって実現したのだと歌うのです。

今日の聖書の18節にはこういう言葉があります。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

「信じない者は既に裁かれている」とありますが、これはいったいどういう意味でしょうか。

その前の17節には「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とありますが、これと矛盾するように思われるかもしれません。

ひと言でいえば、御子を信じることができるということの中に既に救いがあり、御子を信じることができないということが裁きの状態であるということです。御子を信じて生きることそのものの中に裁きからの解放があり、喜びがある、救いというのはそういうことです。

救いというのは何か辛いことを辛抱して辛抱して、その報いとして死んだあとに与えられるというようなものではないのです。

マタイによる福音書の20章にはぶどう園の譬え話が記されています。ぶどう園の主人が働き人を求めて夜明けに広場に出かけて行きます。そして、何人かを雇ってきました。朝の9時頃にまた広場へ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、その人たちも連れてきました。12時頃と3時頃にも同じようにしました。最後には夕方の5時頃にもう一度、広場へ行って人を集めてきました。

そして、報酬の時間になりました。夕方の6時頃でしょうか。主人は終わりに来た人から順番に賃金を払っていきました。約束の1デナリオンです。そして、一番早くから来ていた人たちにも約束通り1デナリオンを払いました。するとその人たちは不平を言ったのです。「どうして、夕方から来た人たちと朝から働きてきたわれわれが同じ1デナリオンなのだ。それでは不公平ではないか。」この人たちは報いというものを、働いて働いて最後に与えられるものとして考えていたのです。働いている間は辛いのをじっと我慢していたのでしょう。。

この人たちが知らなかったこと、気づいていなかったことがあります。それは朝から雇われて主人の傍にいることの中に既に幸いがあったということです。ぶどう園の中に入れられることそのものの中に救いがあったのです。それと比較していえば、そのぶどう園の外に置かれていることの中に裁きがあるということです。

あの放蕩息子の兄についても同じことが言えるでしょう。どこかへ勝手に出て行ってしまった弟息子が帰ってきた時に、父親は大喜びをして彼のために祝宴を開きました。その時に兄息子はどうしたかというと、すねて、一人で外へ出て行ってしまいます。父親は家の中から外に出てくると兄息子に言いました。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」兄息子はそのことを忘れていたのです。

救いと裁きというのはそのような関係にあります。ヨハネによる福音書のここの所で言えば、主イエスのことを知り、主イエスと共にあることの中に既に救いがあるということです。

そして、そこから閉ざされていること、その外に置かれていることが裁きです。それは、「この救いの中に入ってきなさい」と呼びかけられている状態です。そして、まさにその救いの中に招き入れるために、主イエスは天から地上に降りて来て、その道をつけてくださったのです。

 

今ここにおられる方々の中にこの招きから漏れている人は一人もありません。私たちはこの言葉を受け入れて、「永遠の命」を共に生きる者でありたいと思います。