「イエス・キリストの証し人」

                        ヨハネによる福音書168

                                                   水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の1章の6節から8節です。

ヨハネによる福音書はここで一人の人物を紹介しています。その名はヨハネです。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」

ヨハネは「光」であるイエス・キリストを証しする証人として紹介されています。天に属する事柄が地上の事柄として展開するためにはそのことに仕える地上の人物が必要です。それが証人、証し人です。

「証し」とは本来は法廷用語、裁判用語としての性格を持っていて、「真実を証言する」というような意味の言葉です。それが信仰の世界においても用いられるようになって、神の真理を人々の前で明らかに語ることとか、自分自身に与えられた神からの恵みを真実に語ることによって神の姿をその人の言葉で明らかにするということを表すものとなりました。

そこから私たちが知ることができることは、証しの行為には明らかに一つの制約があるということです。それは、自分を語るのではなくて、常に神を語る、あるいはイエス・キリストを語ることでなければならないということです。そのことを抜きにして真の証しはあり得ないのです。

この証しの行為の中にはイエス・キリストと証しする者との間に「密接さ」と「距離」との両面があります。

「密接さ」とは、語る者、証しする者自身がイエス・キリストと強く結びつき、キリストによって生かされているという事実がなければ真の証しはできないということです。単に客観的に、中立的に、ある知識を披瀝することが証しではありません。証しする者がその知識に従って生きていることが大切なのです。

「距離」というのは、8節に「彼は光ではなく」と述べられ、20節に「彼は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した」と記されている事柄によって示されています。つまり、証しの行為においては自分が中心にあるのではなく、あくまでも中心に立つイエス・キリストに仕えることなのだということから外れてはならないのです。

私たちが持っている欲望の一つとして、自分を目立たせようとすること、自分への賞賛を集めようとすること、そのようなものがあるかもしれません。誰にでも自分という人間が事柄の中心に立つことを願う思いというものがあります。しかし、証しという行為にはそのような要素が入り込んでくる余地は全くと言ってよいほどにないのです。自分のことについてたとえ語ることがあったとしても、それは自分を浮き出させるためではなく、そうすることによってイエス・キリストを人々に伝えることが起こらなければ意味がないのです。

この福音書はヨハネの役割について、先ほども見ましたように、厳密に「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」、「すべての人が彼によって信じるようになるためである」と述べています。ヨハネの役割はそのようにしてイエス・キリストこそが闇の中の光のように、一人一人の生き方を導く真の救い主であることを明らかにしていくこと、そして人々が信じるようになることでした。

ヨハネは人々の信仰のために三十数年の短い生涯を献げました。それはただ一つのことのために情熱を傾け、熱い炎を燃えたぎらせた生涯でした。彼は自分のことのためではなく、人々のまことの生のため、まことの死のために生き、そして死んだのです。

私たちは、人の生き方にはこのようなものもあるのだということを教えられます。それは自分の益、自分の栄誉、自分だけの幸いということではなく、逆にそれらのことは放棄してでも他者の命と幸いのために仕える生き方があるということです。

闇であるこの世、そこに生きる私たちは、自分自身の力だけではそこから抜け出る道を見い出すことのできない者たちです。私たちは自分自身の力だけでは光であるイエス・キリストを認め、理解することはできません。そこで神はイエス・キリストを証しする者として、まずヨハネを立て、その生と死を通して多くの人々に命の道を指し示されました。人の生においては、イエス・キリストを知ったがゆえに、キリストに捕らえられたがゆえに、もはや自分だけの命として自分の人生を組み立てていくことができなくなるということがあり得るのです。

まさしくヨハネがそれでした。いつの時代にもこの「ヨハネ」は必要です。全てのキリスト者がそれぞれの立場でイエス・キリストの証人としての働きをなすことが神によって期待されています。そして、そのような神からの期待は私たちキリスト者の務めとなっていきます。それぞれがイエス・キリストによって捕らえられ、キリストによって闇から光へと移され、真の命を与えられた者として自分自身を人々の前で表しながら、キリストがいかなるお方であるかを明らかにしていく、そして一人一人の新しい歩みのために仕えていくことが求められているのです。

私たちはそのために召されていると言ってもよいでしょう。私たち自身の言葉や行いや日々の生きざま、そして他者との関係などが、人々にイエス・キリストにあって生きることの喜びを示し、それによってキリストご自身を明らかにすることに用いられるのです。信じる者の喜びや平安や信仰における逞しさが、また他者に示される愛や心遣いや祈りが神によって用いられて、イエス・キリストを証しすることに役立てられるのです。神の憐れみはそのように土の器である私たちを御国のために用いることにおいても豊かに表されているのです。

ペトロの第一の手紙の2章の9節にこういう言葉が書かれています。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」

私たち自身が何よりも暗闇から真の光であるイエス・キリストのもとに招き入れられた者としての喜びと確信に立って、今もなお自分の中にある暗闇に苦しみ、その中に沈み込んでしまいそうになっている人々が自分の外に輝いている真の光を見い出すために、キリストの証人として仕えたいものです。

皆さんはヘレン・ケラーという人をご存じかと思います。彼女は日本で行われた講演の中で次のような言葉を語っています。「私は目が見えません。誕生後、間もなくから、この暗黒の世界に住んでいます。しかし、私には良い友人が与えられ、また、神さまから心を明るく照らす光を与えられていることを感謝しています。あなたのランプの灯を今少し高く掲げてください。見えない人々の行く手を照らすために。」

ランプは自分の足もとに置いても何かの物陰に置いても他の人の助けとはなりません。しかし、今少し高く掲げるならば、広く、遠く、多くの人々の歩くのを助けることになります。

私たちは、私たちに与えられているイエス・キリストという灯をこの時代の中で今少し高く掲げることによって、今までその灯を見ることのできなかった人々の助けとなるかもしれません。イエス・キリストを宣べ伝える声を今少し大きくすることによって、キリストを自分の向かうべき目標として見い出す人が生まれてくるかもしれません。

 

クリスマスは夜の出来事でした。闇の最も長い季節の出来事でした。しかし、クリスマスの時から光が増し加わっていったのです。人がこのクリスマスの中心に立つイエス・キリストを迎え入れることができる時、そこに逆転が起こり、闇が光に圧倒される出来事が起こるでしょう。私たちに起こったことは他の人にも起こり得るのです。このアドベントの時、私たちは篤い祈りを込めて、心に覚える人に語りかける言葉を用意して、それを差し出す者でありたいと思います。