「豊かな者となりなさい」

         コリントの信徒への手紙二 817節 

                水田 雅敏

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の8章の1節から7節です。

1節でパウロはこう言っています。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。」

「神の恵みについて知らせましょう」とあります。私たちキリスト者は神からいただいた恵みについて世の人々に知らせる者です。世の人々だけではありません。キリスト者同士が集まって、自分に与えられた神の恵みを語り合います。互いに神の恵みを聞くことができたらどんなに幸いであり、どんなに励まされることでしょう。

パウロがここでコリントの教会の人々に神の恵みとして知らせようとしているのは、マケドニア州の諸教会の人々が行ったエルサレムの教会に対する献金活動です。

2節にこうあります。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」

当時、エルサレムの教会には貧しい人々が大勢いました。なぜそうだったのかということについては明らかではありません。その地方に大きな飢饉が起こったとか、ローマ帝国の迫害に遭ったとか、もともとエルサレムの教会は貧しい人々が多かったとか、いろいろな説があります。いずれにしてもエルサレムの教会を助けることは諸教会にとって大切な務めでした。

マケドニア州の人々がエルサレムの教会に献金することができたのは彼らが裕福だったからではありません。ここに語られているように、むしろ彼らは「激しい試練」と「極度の貧しさ」の中にありました。ですから、その活動は豊かに持っている人が持っていない人に対して行う活動ではありません。それは貧しさのどん底において行われたのです。

マケドニア州の教会の人々は、献金活動だけでなく、慈善の業と奉仕にも参加させてほしいとパウロに願い出ました。

3節から6節にこうあります。「わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。」

慈善の業というのは難しいものです。それをするほうも受けるほうも微妙な気持ちが働きます。そのとき、マケドニア州の人々は「自分自身を献げた」、それも「神の御心にそって献げた」とパウロは言います。

貧しい者がかえって多くのものを献げ、富んだ者はかえって少ししか献げないのは世の常です。しかし、神は貧しさの中からレプトン銅貨二枚を献げる人を祝福されます。

あるとき、イエスは、一人の貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を賽銭箱に入れるのを見て、こう言われました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

マケドニア州の人々が「自分自身を献げた」というのは、こういうことを言うのでしょう。それは神の御心に適うものでした。

マケドニア州の人々の献金活動や慈善の業は、それができるかどうかとその可能性について不安に満ちて計算したりすることもなく、また自分たちの状況について考慮することもなく、ただ兄弟姉妹たちの困窮を思って行ったことです。貧しさを経験した人は他者の苦しみを思いやることができるのです。

もちろん、貧しさのために心が歪むこともあるでしょう。けれども、そのとき無いのはお金ではなくて信仰です。献金活動をすることも慈善の業をすることもすべて神から与えられた恵みです。誇るべきものではなく感謝すべきものです。これらはすべて神との関係の中から出てくるものです。

そこでパウロはコリントの教会の人々に勧めます。

7節にこうあります。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」

パウロはコリントの教会の人々があらゆる点において豊かな者になっていると言います。けれども、彼らの豊かさには足りないところが一つだけある、それは貧しい人々を顧みることだというのです。

ここで思い起こすのはマルコによる福音書の10章に書かれている出来事です。ある人がイエスのところに来て、「永遠の命を受け継ぐには何をすればいいでしょうか」と質問しました。それに答えてイエスは、「あなたはモーセの十戒を守っているか」とお尋ねになりました。その人が「そういうことはみな子供の時から守ってきました」と言うと、イエスはこう言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」これを聞いて、その人は悲しみながら立ち去りました。福音書記者マルコは、「沢山の財産を持っていたから」とその理由を説明しています。つまり、その人は、富を失ってしまったらわたしの人生はおしまいだ、と思ったのです。だから、イエスに従うことができなかったのです。その人にとってイエスに従うことと貧しい人々を顧みることとは何の関係もなかったのです。

支援とか援助ということを聞いて世の人が真っ先に考えるのは富のことでしょう。富が人間生活に大きな影響を及ぼすことは誰もが知っていることです。中には、富は人間の命を支えるものだと考える人さえいます。そうであるなら、富と信仰生活とがどう関わるのか、私たちはよく考えてみなければなりません。

 

マケドニア州の人々は、貧しさの中にあって、かえってイエス・キリストによる救いの恵みを感じ、それに生かされ、その恵みを貧しい人々への献金という形で表しました。イエス・キリストに従うことは貧しい人々を顧みることでもあります。そしてそれは自分が真に富んだ者、真に豊かな者となることです。私たちは何によって生かされているのか、富なのか、それとも神なのか、改めて自分の生活を吟味したいと思います。