「わたしは光として世に来た」

                     ヨハネによる福音書12章4450

                                                   水田 雅敏

 

ヨハネによる福音書の12章は今日で終わり、次回から13章に入ります。

13章から17章には主イエスの教えが集中して語られています。ちょうどマタイによる福音書の中に、同じように、主イエスの教えが集中して語られている所があります。「山上の説教」と呼ばれている所です。それに匹敵する、私たちの生活を造る主イエスの言葉が13章から17章に書かれているのです。

それは、私たちの毎日の生活、朝起きてから夜寝るまで、家庭で、職場で、学校で、生活する時に、そのような日常の生活の営みの中で忘れてはならない言葉です。自分が語る言葉、自分がする行い、それがいつもこの言葉に照らされて吟味されますし、またこの言葉によって造られるものであることが求められます。

それに先立つ12章の50節にこのような言葉が記されています。「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。」

「父の命令」という言葉があります。この命令が何であるかということが13章から17章の主イエスの言葉が明らかにしています。例えば、13章に入ると、すぐに夕食の情景が描き出され、共に夕食をとっている弟子たちの足もとに主イエスがひざまずいて、僕のようにその足を洗った、という主の姿が描かれています。そして、そのようなことをなさった主イエスが、やがて34節に次のような命令の言葉を語られます。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。「わたしがこのようにあなたがたを愛したのだから、あなたがたもその愛を映す愛を持つように」。これが「父の命令」です。

「父の命令は永遠の命である」というこの言葉は、私たちに驚くべきことを教えています。「父の命令は永遠の命である」というのは「神の命令を今ここで生きていると、やがて永遠の命というご褒美が与えられる」ということではありません。そうではなく、「神の命令はそれ自体が永遠の命であり、それに生きる者は、今ここで、既に永遠の命を生きている」ということです。

私は伝道師、牧師になってから既に何十人かの人たちを神の御もとに送りました。一方でとても悲しい思い、寂しい思いになりますけれども、しかし他方、次のような思いも生まれます。「あの人は主の言葉を聞き続けて、主の言葉に生かされて生きていた。だから、死んでから永遠の命に生きるというようなことではない。私たちと共にあった時、いや、私たちに顔を見せることができなくなった時でさえも、そこでなお永遠の命に生きていた。既にそこで死を越えて生きていた。今も生きている。そして私たちもそうだ」。

この主イエスの言葉を含む12章の44節以下は、こういう言葉から始まっています。「イエスは叫んで、こう言われた。」

これはヨハネによる福音書がどうしても書かなければならない言葉だったと思います。

ヨハネによる福音書は12章の43節に「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」と書いています。

主イエスの言葉に心を惹かれながらも、遂に信仰を言い表すことがなかった人々が、人間から与えられる名誉を重んじて、神から与えられる栄誉を軽んじてしまったというのです。

「困ったことだ。困った人たちだ」と、私たちであれば、そういう言葉が続くところですが、その私たちの思いを遮るように、ヨハネによる福音書は、「イエスは叫んで、こう言われた」と書いているのです。

ある人はこの主イエスの叫びをこう説明しています。「これは魂の救いを求める熱望が思わず生んだ叫びである」。言い換えると、主イエスは私たちの救いのためにとても熱心でいてくださるということです。

それでは、そのように主イエスが熱心な思いをもって語られた言葉は、どのような言葉なのでしょうか。

44節から45節にこうあります。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」

44節に「わたしを信じる者」という言葉あり、45節に「わたしを見る者」という言葉があります。これらはいずれも同じ意味で用いられています。つまり、主イエスを信じることは主イエスを見ること、ということです。

この「見る」というのは、ただ目で見て「ああ、主イエスがおられる」というようなことではありません。主イエスを見ながら見ていなかった人が幾らでもいます。そうではなく、この「見る」というのは「その人をその人として見る」ということです。「わたしを信じること、それはわたしをわたしとして見ることだ」と主イエスは言われるのです。

どうして、そのようなことを言われるのでしょうか。

46節にこうあります。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」

これは今の繋がりで言うならば、主イエスを見ることは主イエスを光として見ること、ということです。「わたしを光として見たら、あなたがたは暗闇の中から抜け出すことができる。光の中に移ることができる」と主イエスは言われるのです。

私たちは、光と闇のいずれかということに、なかなか徹し切れない生き方をしているところがあります。自分のものの考え方や生活を考えた時に、そう思わざるを得ないところがあります。「あなたは光の子ですか」と尋ねられると、どうもそう言い切れないところがあります。あちらに影が射し、こちらが黒ずんでいます。「それでは、あなたは闇の子ですか」と尋ねられると、「いや、私にも少しはいいところがある。ほら、ここにも光、ここにも光…」。そのように、私たちは暗いとも明るいとも判断がつかないようなところで、「それでよいではないか」と思っているようなところがあります。

そのような私たちに主イエスは言われるのです。「あなたがたは闇に捕らわれてはいけない。闇の中に留まってはいけない。わたしのところへ来なさい。わたしの光の中に入りなさい。神はここに生きて働く」。

これは明らかに私たちに決断を求める言葉です。信仰は決断です。主イエスの光の中に入るという決断をするのです。しかも、その機会はいつもあるわけではありません。

それはちょうど、電車が向こうからやって来るようなものでしょうか。電車が自分の前に来た時、私たちは、無意識であるかもしれませんが、それに乗るか乗らないかの決断をします。そこで乗らなければ、電車は自分の前から過ぎ去ってしまいます。次の電車まで待つという決断をすることもあるでしょう。しかし、もう来ないかもしれないのです。

困難の中で主イエスに救いを求めて、その時は一条の光がそこに見えていた。しかし、その困難が過ぎ去った時には、ほかにいろいろな光が見えてきた。そうすると逆に、主イエスのほうの光がくすんで見えなくなってしまった。そういうことはしばしばあります。

ところが主イエスは、そのような決断を求める言葉を語りながら、47節にこういう言葉を語っておられます。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」

信仰の弱さ、挫折、それはやがて、全ての弟子たちに及んでいきます。「わたしこそ主イエスの弟子だ」と言っている者たちも、最後には主を見捨てて逃げてしまうのです。

その典型が一番弟子のペトロでした。主イエスはそのペトロにこう言われました。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ペトロに励ましの言葉を語っておられるのです。

信仰の弱い者、決断するのをためらっているような者をも、主イエスは受け入れて、その人たちのために十字架にかかられたのです。

そこで、もしも、「ああ、それなら、信仰の決断をしなくてもよいのだ」と思うならば、それは事柄の本当の重さを理解していないのでしょう。そうではなく、「そのようなお方、私の状態いかんにかかわらず、私を受け入れてくださっているお方であるからこそ、私はこのお方に従っていきます。救い主と受け入れて、その光の中を歩んでいきます」、そのような決断をしたいと思います。

既に信仰の決断をし、キリスト者として歩んでいる人も、いつ弱さの中に舞い戻ってしまうか分からないのですから、その都度、信仰の決断をして、主イエスを受け入れていくことが大切です。主の日の礼拝はそのために備えられているのです。

 

「わたしは光として世に来た」。私たちは、この主イエスの言葉を真剣に受けとめて、これに応える歩みを、日々造っていきたいと思います。