「主イエスの栄光」

                     ヨハネによる福音書122743

                                                   水田 雅敏

 

今日、私たちに与えられた聖書の箇所はヨハネによる福音書の12章の27節から43節です。

36節の後半にこう記されています。「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。」

ヨハネによる福音書を読んでいくと、この何気ない言葉がとても重要な意味を持っていることに気づかされます。これ以後、主イエスは人々の前に姿を現さなくなるからです。

「彼らから」とありますが、これは34節に「群衆」と記されている人々です。「群衆」のもとの言葉は「民」と訳すこともできる言葉です。神の民から主イエスは身を隠されたのです。民の中から光が消えたのです。35節で主イエスは「暗闇」について語っておられますが、その暗闇が始まったのです。

その暗闇を造っているもの、それは主イエスに対する人間の心の頑なさです。ですから、ヨハネによる福音書は37節に「彼らはイエスを信じなかった」と書いています。心を頑なにするということと主イエスを信じないということとは重なってくるのです。

この「彼らはイエスを信じなかった」という言葉に続いて、ヨハネによる福音書は38節に「預言者イザヤの言葉が実現するためであった」と書いています。。

そこに引用されている「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか」という言葉はイザヤ書の53章の言葉です。イザヤ書の53章は、主イエスがお生まれになり、十字架につけられるよりも遥か昔に、まるで主イエスの姿を目の前に置いてそれを描き出したかのように、苦しみの中で人々の罪を担って死んでいく僕の姿を語っています。ここに救いがあるということを誰が信じたか。主なる神の御腕は誰に示されたか。それは人間の心の頑なさによって殺されたこの人においてだ。しかも、そのことを誰も信じなかったというのです。

どうしてそんなことが起こったのでしょうか。ヨハネによる福音書は42節から43節にこう書いています。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」

主イエスを信じるということは人間にとってたやすいことではありません。その理由は単純なことです。「公に言い表さなかった」とあります。主イエスを心の内で受け入れているだけでは信仰にならないということです。信仰は「公に」言い表さなければなりません。公に言い表すとどういうことになるのでしょうか。会堂から追放されます。会堂というのは当時のユダヤ人の会堂です。その会堂があるそれぞれの町や村に住んでいる人々は、会堂を中心に生活を営んでいました。ですから、会堂から追放されるということは、日本風に言えば、村八分を余儀なくされるということです。

これに、もう一つ付きまとう問題があります。それは「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好む」という人間の心です。「好む」と訳されているもとの言葉は「愛する」という言葉です。われわれが愛しているものは何か。それは、結局は人間から受ける誉れではないか。人々から名誉を受けることではないか。人々の評判になることではないかというのです。

これは私たちにとっても誘惑です。例えば、「私はキリスト者でなければ、もっと世間の評判のいい名誉のある務めにつくことができたのに」などとどこかで思ってしまうのです。こうして人間からの誉れは神からの誉れと対立するのです。

ですから、私たちはその誘惑と戦わなければなりません。そして、その誘惑に勝つ道、それは神からの誉れを愛する以外にありません。

では、神からの誉れを愛するとはどういうことでしょうか。「神からの誉れ」と訳されているもとの言葉は「神の栄光」という言葉です。ですから、神からの誉れを愛するということは、私たちが神の栄光を証しする栄誉に生きるということです。神に喜んでいただくことを何よりも大切にして生きるのです。

28節に主イエスの祈りが記されています。「父よ、御名の栄光を現してください。」

十字架の苦悩を思いながら主イエスは神の栄光が現れるのをお求めになりました。

ある人がこの祈りを「黄金の祈り」と呼んでいます。黄金の祈り、それは、私たちもこのような祈りをしよう、ということです。

私たちも祈ります。その祈りには、家族の幸せ、自分の健康のため、いろいろな祈りがあるでしょう。けれども、黄金の祈りにおいて主イエスが願われたのは「神の栄光をわたしは愛する、愛したい」という祈りでした。

神はその祈りに応えて、「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」と言われました。神御自身の栄光を主イエスに現すと約束されたのです。

この主イエスの栄光をヨハネによる福音書は40節から41節にこう表現しています。「『神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」

ここに引用されている言葉はイザヤ書の6章の言葉です。イザヤ書の6章にはイザヤが神に召されて預言者として立てられた時の出来事が書かれています。

ところが、とても不思議なことですが、預言者というのは神の言葉を語るように召されるのですが、神はイザヤに対して「あなたが語る神の言葉を人々は聞かない」と言われました。「あなたは皆が歓迎してくれるような言葉を語るわけではない。むしろ、あなたがわたしの言葉として言葉を語る時、人々は心を頑なにしてそれに耳を傾けることはない、それが明らかになる」というのです。つまり、イザヤは神の裁きの言葉を語らされるということです。

その神の裁きが、ここで、この闇の中で、主イエスに対する人々の心の頑なさとしてそのしるしを見せているのです。

その時、いったい何が求められるのでしょうか。私たちはどうしたらよいのでしょうか。それは、低くなって十字架にかけられ、復活の命に生きておられる主イエスに、心を合わせる以外にありません。その時、私たちもまた神からの誉れを受け、神の栄光を求めて生きることができるようになります。

32節で主イエスは次のように言っておられます。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

「上げられる」という言葉があります。これは一つには「十字架に上げられる」という意味です。しかし、「上げられる」というのは同時に、死を突き抜けて永遠の命へと復活すること、天の命に上げられることをも意味します。私たちの生活の中に主イエスの復活の命の息吹きが起こると、人間としての望みを回復することができるのです。私たちの生活の中に神の光が射すのです。

私たちの生きている世界は依然として闇が支配しているかのように思われるところがあるかもしれません。しかし、まさにそれに逆らって私たちは言います。「主イエスは復活された。光は闇に勝った」。私たちはそれを証しすべく召されているのです。

 

ここに私たちの栄光があります。私たちの栄光、それは神の栄光、主イエスの栄光と一つになるものです。私たちの生活、私たちの家庭、私たちの職場、私たちが生きる所どこにおいても、この主イエスの栄光が私たちの言葉と行いによって証しされますように、そこで一人でも多くの者が、信仰こそ人間の生きる道であることを知ることができますように、互いに励みたいと思います。互いにその祝福の中にあることを信じたいと思います。