神は我々と共におられる 

                                   マタイによる福音書1章18~25節

                                              水田雅敏

 クリスマス、おめでとうございます。神の祝福が皆さんにありますように。

 23節に、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」とあります。「インマヌエル」というのは「神は我々と共におられる」という意味です。「神がわれわれと共におられることを確信することによって、あなたは平安であれ、慰めを得よ」というのです。私たちは慰めを必要とする存在です。ここには、どんな時にも、どのような状況においても、どんな人にとっても通用する、真の慰めがあります。それは神が私たちの傍にいてくださるという事実です。このことを私たちが確信してよいという神からのしるし、それがイエスの誕生の出来事です。

 21節に、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」とあります。共にいるということ、それは愛の一つの形です。誰かが共にいてくれることによって、私たちは慰めや平安や喜びを与えられます。けれども、これを破るもの、壊すものがあります。それは私たちの罪です。他者を自分の目的のために利用する、手段とする、他者を犠牲として自分自身を膨らませていく、そういう罪が私たちの中にあります。罪は人と人を分断します。人を孤立させます。神との関係もこの罪によって人間のほうから分断してしまいます。人間はそのようにして様々な分裂を味わい、生み出し、それによって自ら苦悩を抱え込む者となっています。

 そのように抱え込んだ人間の苦悩はまた、神の苦悩でもあります。神はそれを真剣に問題にされます。ですから、人間が破壊してしまった関係の修復と回復のために、この世界に来てくださったのです。イエスにおいて来てくださったのです。そして、「わたしはあなたがたと共にいる」と告げてくださったのです。「このイエスを見ることによって神を見よ。このイエスを信じることによって神を信じよ。このイエスを救い主と確信することによって、どのような時にも神が共にいてくださることを確信せよ」と私たちは呼びかけられているのです。

 このことは世界の全ての人間に対して神がつくり出してくださった事実です。これを知り、これを受け入れるとき、私たちの孤独は終わります。絶望に終止符が打たれます。死は命に変えられます。イエスは死んで復活し、天に昇って行かれる時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがた共にいる」(マタイによる福音書28章20節)と約束してくださいました。この事実の中に私たちはおかれているのです。それは神がいつも私たちを心にかけておられるということです。神がいつも私たちを顧みておられるということです。

 この神の真実に生かされている自分であることを知るとき、私たちは自由にされ、自分自身からも解放されて、隣人に向かうことのできる者とされます。そのとき、私たちは、孤独や孤立、憂いや悲しみ、絶望や死への傾きの中にある人たちに、真の慰めを運ぶ者とされます。クリスマスはそのような神と共にある人生を新たに踏み出す時なのです。