救いは主にこそある

   ヨナ書2章8~11節

    水田雅敏

 

海に放り込まれたヨナは、神が巨大な魚を用意してくださり、その魚の中に呑み込まれることによって、死から免れることができました。8節から10節には、この時、ヨナの中に生まれた、神への新しい信仰と決意とが告白されています。ヨナは、望みがまったく消え失せたとしか思えない時、「わたしは主の御名を唱えた」と言っています。

この「唱える」という言葉はもともと、「思い出す」とか「覚える」という意味を持っている言葉です。しかも、単に過去のことを記憶として持っているだけでなくて、「思い起こしたものに向かって、今、働きかける」とか「思い出したものを、今、追い求める」という積極的な意味をも持っています。つまり、思い起こした神に向かってヨナが助けを祈り求めた、最後の頼むべきお方として思い起こした神に、ヨナがすべてを委ねようとした、そういう積極的な関わりが、この言葉の中に込められているのです。

苦しみに追い込まれた状況の中で私たちが何を思い出すか、そのような状況の中で何に助けを求めるか、これは大変重要なことです。それは自分の最後が近づいたと思うその時に、何に自分を委ねるかということでもあります。それによって私たちの生死が分かれると言ってもよいほどのことです。

ヨナは息絶えようとする時に、かつて自分に恵みや愛や憐れみを注いでくださった神を思い起こし、その方に叫び求めることをしました。ある人は、「この時、聖霊がヨナの祈りを引き起こしたのだ」と言っています(宗教改革者ルター)。神御自身の働きかけがヨナにあったのです。ヨナが神を思い起こすことによって神からの働きかけがあり、神は危機から逃れる道をヨナに備えてくださったのです。

私たちはどうでしょうか。苦しみの極みの中で、私たちは何を思い起こし、何に助けを求めるでしょうか。様々な思いが私たちの心の中に駆け巡ることでしょうが、聖書はヨナに起こった出来事を通して大切なことを私たちに教えています。それはイエス・キリストの神こそ窮地において思い起こすべき唯一の方だということです。私たちが助けを求め、すべてを委ねることのできる方はこのお方以外にないということを、聖書はヨナの身に起こったことを通して私たちに示してくれています。極限状況の中で自分の身を託すことができる方はこのお方以外におられないという生き方をする、それがイエス・キリストの神を信じるということです。

私たちも様々な苦難を忍ばなければならない時があります。苦難に耐えなければならない時があります。重荷を負わなければならない時があります。「なぜなのか」、そのように叫びたくなる時があります。ヨナもそのような時を過ごしました。しかし、ヨナは神に祈り求めることによって新しい自分を造り出されました。

私たちが受ける苦難の時、悩みの時、重荷を負わなければならない時を、神による私たちの再教育の場として受け止め、また神による再創造の業に自分が置かれているのだと信じて、その中で私たちはイエス・キリストの神、私たちの神の名を呼び続ける者でありたいと思います。