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「命の言」
ヨハネの手紙1 1章1~4節
水田 雅敏
今日から私たちはアドベントの時を過ごします。アドベントはイエス・キリストを心にお迎えする準備の時です。
今日の聖書でまず注目したいのは1節の言葉です。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」。
この手紙の著者ヨハネはここで、四つの句によって一つの事柄を説明しています。四つの句のうちの第一は「初めからあったもの」です。そしてそれに続いて、「わたしたちが聞いたもの」、「目で見たもの」、「よく見て、手で触れたもの」という具合に三つの句が語られています。そしてそのことが「すなわち、命の言について」という句によってまとめられているのです。
いったい何のことについて、あるいは誰のことについて語ろうとしているかはここではまだ分かりません。しかしさらに読み進めていくうちに、これは神の御子イエス・キリストについてのことだということが明らかにされていきます。「伝える」という言葉が1節、2節、3節に繰り返されているように、この手紙の著者はこれを読む者たちにイエス・キリストを伝えようとしているのです。
ここで問題になっていることは何でしょうか。
1節の四つの句は二種類に分けることができます。それは最初の「初めからあったもの」が一つであり、これは超越的なことに関するものです。残りの三つがもう一つの種類に属するものであって、これは現実的・人間的なことに関するものです。
「初めからあったもの」とは「世界が造られる以前から」「永遠の昔から」という意味の言葉として考えることができます。言い換えるならば、私たち人間が認めることのできる以前からその方は存在しておられたということです。あるいは私たちが必要と覚える以前から私たちのために備えられていた方がおられたということです。人間には分からない神の計画があり、神の究極の思いというものがあって、それに関する方が初めから神のもとに存在していたのです。
それが続いて、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」という説明によって、人間が認めることのできるものとなったことが言い表されています。
神のもとに初めからおられた方、神の究極の思いを備えた方が人間の世界に現れて、それを人は知ることことができるようになったということです。人は神の計画を知る者とされたのです。人が分かるように神御自身がその方を示してくださったのです。
2節ではそのことが「現れた」という言葉で説明されています。「この命は現れました」。つまり、人間の世界に神自らが突入して来られた、踏み込んで来られたからこそ、人は神の計画を担う方を知ることができたということです。その方こそ神の独り子イエス・キリストです。そのことが起こった歴史的な出来事こそクリスマスです。
なぜこの手紙はイエス・キリストを「命の言」として言い表しているのでしょうか。それは「言」ということで「神の意志の実行者」ということが示されていると言ってよいでしょう。先ほど「神の究極の思い」という表現をしましたが、イエス・キリストにおいて神の究極の思いが何であるかが明らかにされるのです。人間が言葉をもって自分の意思や思いを表すように、神はイエス・キリストにおいて御自身の意思や思いや計画を人間に分かるように語りかけ、示してくださるのです。それがイエス・キリストが「言」と言われていることの所以です。
さらにその言が「命の言」と言い表されています。これはどういうことでしょうか。それはその言そのものに命があったということです。イエス・キリストは命ある方として来られたのです。
それだけではありません。この言はその命をお与えになることができます。イエス・キリストは人間に命を与える方として来られたのです。
しかも2節ではその命が「永遠の命」と言われています。
私たち人間は命をもって生きています。生物学的な命の中で生きています。これが命だと思っています。しかしそれだけが唯一の命なのではない。別の命、永遠の命というものがあるのだということを、この「命の言」「永遠の命」と呼ばれる方を通して私たちは知らされるのです。
私たちは自分が生きている世界が全てだと思いがちです。自分たちが今生きている命が全てだと考えがちです。しかしそうではないのです。私たちの現実を超えた「高み」があるのです。
そこから来られたイエス・キリストは、そこへ私たちを導こうとしておられます。そのために神はイエス・キリストによって私たちの世界に踏み込んで来られたのです。
神は私たちに永遠の命を与えようとしてイエス・キリストを遣わしてくださいました。究極の思いを込めてイエス・キリストを遣わしてくださいました。そうであるならば、私たちはこの方を無視して生きることはできません。私たちはこの方に自分の全てを集中しなければなりません。そして、神が与えようとしておられる永遠の命、神御自身の命と等しい命を自分のものとしなければなりません。この手紙の著者にはそのような熱い思いがあるのです。
ヨハネは実際にイエス・キリストに出会った人物としてこの方から聞き、この方を見、この方に触れたのかもしれません。あるいは信仰の耳によってこの方から聞き、信仰の目によってこの方を見、信仰の手によってこの方に触れたのかもしれません。
いずれにしても、イエス・キリストにおいて御自身を示された神に結びつけられた者として、これを「伝える」こと、「証し」すること、「書く」ことを、今為しています。「神自ら御自身を語り伝えようとしてこの世界に踏み込んでくださったのだから、わたしも伝え、証しし、書き送ることによって全ての人にこの命の存在を知らせるのだ」と強い意志をもって語っているのです。そして、多くの人々が、今ヨハネ自身が生かされている神とイエス・キリストとの交わりの中で生きる者となり、その喜びを自分のものとしてほしいと願っているのです。
私たちが生きている世界には言葉によって傷ついている人々、様々な事柄によって命に傷を負っている人々がたくさんいます。さらに今日では「居場所」ということもしばしば語られ、この世界の中に、あるいは人と人との関係の中に自分の本当の「居場所」を持つことができない人々が増えているということが指摘されています。
私たちの真の居場所とはどこなのでしょうか。
このアドベントの時、私たちはもう一度、心を空しくして、初めからあった方が私たちの耳、目、手で捉えることができるものとなってくださった出来事の中に、私たち一人一人に対する神の意志を読み取りたいと思います。
神が私たち抜きには、いや、この私抜きには存在しようとはされない方であるということ、神がそのように御自身を知らせてくださったということ、そのことに私たちの心を傾けたいと思います。
その時、神がイエス・キリストを通して私たちに与えようとされる永遠の命とは何であるかが分かってきます。その時、自分の生きることの根拠、自分の真の居場所が見えてきます。
この神の御業に対する信仰の耳が開かれ、信仰の目が開かれる時、私たちの内に何かが起こります。何かが変わってきます。クリスマスにおいて、私たちは、もう一度、新しくされるのです。
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