「成し遂げられた」

                                            ヨハネによる福音書192830

                                                                                                            水田 雅敏

 

今日私たちに与えられた聖書の箇所は、ヨハネによる福音書の19章の28節から30節です。

主イエスの受難の記事は、四つの福音書の中に、それぞれ違う仕方で記されていますが、主イエスが十字架上でお語りになった言葉を四つの福音書から全部拾い上げ、それをある順序で並べたテキストがあります。古来それは「十字架上の七つの言葉」として親しまれてきました。

ちなみにそれは以下のとおりです。ルカによる福音書の23章の24節、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。ルカによる福音書の23章の43節、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。ヨハネによる福音書の19章の26節と27節、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」、「見なさい。あなたの母です」。マルコによる福音書の15章の34節とマタイによる福音書の27章の46節、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。ヨハネによる福音書の19章の28節、「渇く」。ヨハネによる福音書の19章の30節、「成し遂げられた」。そして、ルカによる福音書の23章の46節、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。以上です。

ヨハネによる福音書の三つの言葉は、前回の箇所と今回の箇所に出てきます。今日は、この言葉の意味を尋ねながら、御言葉を聞いていきたいと思います。

今日の聖書の28節の前半にこうあります。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」。

主イエスは十字架上で渇きを覚えられました。これは声にならないほどの声であったのではないかと思います。喉が渇くというのは、声を出すのも辛いものです。しかし、訴えなければなりません。

主イエスが渇きを覚えられたことは、既にヨハネによる福音書の4章に出ていました。それはサマリアでの真昼のことでした。主イエスは、旅に疲れて、そのまま井戸の傍に座っておられました。そして、水を汲みにやって来た女に向かって「水を飲ませてください」と訴えました。主イエスが肉体を持った人間としてこの世に来られたことを思わせられるやり取りです。

ヨハネによる福音書は「こうして、聖書の言葉が実現した」と今日の聖書の28節の後半に書いています。

ここで思い起こすのは詩編の22編の言葉です。詩編の22篇の15節から16節にこうあります。「わたしは水となって注ぎ出され 骨はことごとくはずれ 心は胸の中で蠟のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」。

このような苦難を主イエスは十字架の上で引き受けられたのです。

この詩編の22篇を読んで興味深いのは全体の流れです。詩編の22篇は次のような言葉で始まっています。「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか」。

これは先ほど見た「十字架上の七つの言葉」の一つです。この言葉を主イエスはご自分の言葉として十字架上で叫ばれたのです。

ところが、この詩編の22篇をずっと読んでいくと、神を賛美する言葉で終わっているのです。31節から32節にこうあります。「子孫は神に仕え 主のことを来るべき世に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう」。

ですから、主イエスは、ご自分の苦難をこの詩編の22篇の言葉に重ねながらも、最後には神をたたえるということが心の中にあったのではないかと思います。

今日の聖書の29節から30節にこうあります。「そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプにつけ、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」。

「酸いぶどう酒」というのは、変質してしまったぶどう酒、安物のぶどう酒です。「ヒソプ」というのは、石垣に生える平凡な草です。この草の茎は、過越祭の時に血を注ぐ儀式に用いられました。イスラエルの民がエジプトから脱出する時、ヒソプで家の門に羊の血を塗ったからです。

主イエスの十字架はこの過越祭の時になされたので、ヒソプがその近くにあったことは十分に考えられます。それを用いて、主イエスに酸いぶどう酒が差し出されたのです。

それは主イエスが、まさに贖いの小羊、神の小羊になられたということです。私たちを死から守る血が十字架上で流されるのです。

主イエスは、酸いぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言われました。これは、単純に訳せば、「終わった」という言葉です。主イエスの長い苦難がここで終わるのです。しかし、この終わりは敗北を意味するのではありません。主イエスを殺すことを企てた人々からすれば、彼らの思いが「成し遂げられた」ということになるでしょうが、もっと深いところで神の御心が成し遂げられようとしているのです。全てのことが終わります。しかし、そこから始まる新しい世界があるのです。

主イエスは、「成し遂げられた」と言われたあと、頭を垂れて息を引き取られました。あたかも「それでよし」と頷いておられるようです。

ある人がこんな詩を書いています。それは17世紀にシュトックマンという人が書いた『苦しみと悩みと死』という詩です。バッハがこれにメロディーをつけているそうです。

「わたしの大事な救い主よ、聞かせてください。あなたは今、十字架に付けられ、自ら『成し遂げられた』と言われました。だから、わたしは死から解き放たれたのですか。わたしはあなたの苦しみと死によって天の国を受け継げるのですか。全ての世界に救済があるのですか。あなたは痛みで言葉も出ないことでしょう。しかし、あなたは頭を垂れて、無言のうちに『そうだ』と言われる」。

さらに続きます。「イエスよ、あなたは亡くなられたが、今こそ無限に生きられる。最期の死の苦しみにもわたしが頭を向けるのは、ひとりわたしを贖われたあなたのみ。おお敬愛する主よ。ただあなたが手に入れられた救いをお与えください。それ以上の何もわたしは望みません」。

「わたしは死から解き放たれたのですか。わたしは天の国を受け継げるのですか。全ての世界に救済があるのですか」。これは私たちの真剣な問いです。自分のこととしても、世界のこととしても、一番知りたいことです。私たちはそれを主イエスに投げかけます。

しかし、主イエスは何もお答えになりません。ただ頭を垂れて息を引き取られます。無言のうちに「そうだ」と頷かれます。「そうだ。あなたは死から解き放たれる。あなたは天の国を受け継ぐことができる。こうして全ての世界に救いがもたらされる」。

ヨハネによる福音書の3章の16節にこういう言葉がありました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 

私たちの生は死で終わりではありません。そこから始まる新しい命があります。永遠の命に私たちは生きるのです。いや、既に今、生かされているのです。感謝すべきことだと思います。