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「新しい召命」
ヨハネによる福音書21章1~14節
水田 雅敏
今日、私たちに与えられた聖書の箇所は、ヨハネによる福音書の21章の1節から14節です。
1節から2節にこうあります。「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」。
2節に「ゼベダイの子たち」とあります。これはヤコブとヨハネのことです。ですから、ここには七人の弟子たちがいることになります。
その七人の弟子たちに、主イエスは伝道者としての召命を新しくし、その訓練を始められます。
5節にこうあります。「イエスが、『子たちよ、何か食べ物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた」。
主イエスは弟子たちのことを「子たちよ」とお呼びになりました。「子たち」というのは「神の子たち」という意味です。「神の子たちよ、何も獲れなかっただろうね。わたしに食べさせてくれる物はないだろうね」というのです。責めておられるのではありません。これからの弟子たちの歩みの厳しさというものを予感させておられるのです。「これから行うあなたがたの仕事は厳しい。一晩中、いや二晩も三晩も働いて、何の収穫もないような空しい思いになることもある。骨折り損の思いになることもある。無駄働きかと思わずにいられないこともある」。
そのような弟子たちの働きによって、キリストの教会の歴史は始まりました。そして、紀元4世紀に至るまで多くの殉教者が生まれました。
その頃、自分が牧師だったら、どんな思いだっただろうかと時々想像することがあります。洗礼を授ける人たちが与えられます。その人たちは洗礼を受けることによって何を体験することになるのでしょうか。いつ信仰のゆえに死ななければならないか分からない歩みを始めることになります。
これはそんな遠くにまで遡ることもありません。あのキリシタンの弾圧の時代に自分のもとに集まる者たちに洗礼を施さなければならなかった宣教師たちの思いも、同じだったのではないかと思います。死ぬための洗礼だったことが何度もありました。
そのような苦難になぜキリスト者は耐えることができたのでしょうか。復活の主イエスが会ってくださったからです。
主イエスは弟子たちに対して既に明確な使命を与えておられました。20章の22節から23節にこうあります。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。
人々に永遠の命を与えます。それは罪の赦しによります。そのために弟子たちは用いられるのです。
前回、20章の30節から31節をご一緒に学んだ時に、これはヨハネによる福音書の「あとがき」のようなものだと言いました。その「あとがき」に何と書いてあるかというと、31節にこうあります。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子とメシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。
「信じてイエスの名により命を受けるためである」とあります。この福音書を読む人が主イエスの名によって命を受けるためには、何が必要でしょうか。伝道者が必要です。そのために弟子たちは命を献げるのです。
弟子たちには初め、復活のイエスに気づかないほどの鈍さがありました。
8節に「二百ペギス」という距離を表す言葉があります。これは約90メートルです。視力のいい人なら主イエスだとすぐに気づいたでしょう。しかし、弟子たちは分かりませんでした。
11節には「百五十三匹」と獲れた魚の数まで書いてあります。この数の意味はよく分かりません。そこで、のちの時代に、この謎解きが行われました。ある人は「当時の人々が知っていた魚の種類が153だったのであろう。だから、全部の種類の魚が獲れたという意味であろう」といいます。またある人は「当時の人々が知っていた民族の数が153だったのであろう」といいます。あるいは、こう考えることもできるのではないかと思います。本当に153匹獲れたのです。
その大漁の魚を引き上げようとしている時に、主イエスの愛しておられた弟子の「主だ」と言う声を聞いて、ペトロは急いで上着を着て、湖に飛び込みました。裸で主イエスの前には出にくかったのかもしれません。そして、岸に戻って来たら、主イエスがどこから手に入れたのか魚を持っておられ、炭火をおこして焼いておられたというのです。弟子たちが慌てふためいて自分のところに来るのを見ながら、主イエスが魚をひっくり返しては焼いておられる。そんな光景を想像してもよいでしょう。
このように、主イエスが生きて働いておられるということを、弟子たちはその全存在をもって証しするように、主ご自身によって教えられるのです。
12節にこうあります。「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」。
まさに、そのように、主イエスがおられることを確かめる必要がないほどに、主は弟子たちに信仰を叩き込もうとなさったのです。
そのようなことのための訓練ですから、主イエスはすぐに天に昇られませんでした。40日間、弟子たちと一緒におられました。その一コマが今日の聖書の箇所なのです。
13節にこうあります。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」。
当時のキリスト者があからさまに信仰を言い表すことができなかった時、彼らは自分がキリスト者であることを示すために、あるシンボルを用いました。それは魚です。「イエス・キリスト、神の子、救い主」というギリシア語の頭文字を集めると、「魚」という文字ができます。互いに相手の手のひらに魚のマークを書いて、キリスト者であることを確認し合ったのです。
さらに、もう一つのことが、この記事の背後にはあると思います。ここで、「魚」は主イエスが与えてくださった「永遠の命」を表しています。ですから、教会によっては、パンとブドウの杯だけでなく、魚を食べる習慣もあります。
それをするしないに関わらず、私たちもまた主イエスが与えてくださる永遠の命によって生かされています。けれども、まことに申し訳ないことに、そのことを私たちはしばしば忘れてしまいます。そして、不安になります。心を固くします。愚痴を言い始めます。しかし、主イエスはそこに祝福を用意して、既に炭火を起こしながら、私たちを待っておられるのです。
この祝福を受けることにおいて、誰も例外はありません。誰もが主イエスが与えてくださる命へと招かれています。感謝して、この命に与りたいと思います。
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