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「天を仰いで生きる」
創世記1章6~8節
水田 雅敏
今日の聖書の箇所は創世記の1章の6節から8節です。
「神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』神は大空を造り、大空の下(した)と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である」。
天地創造の話を続けています。
第一日目の光の創造に続き、その翌日、第二日目に、神は「大空」を造り、それを「天」と呼ばれました。地の部分の創造は第三日目以降に語られますので、地よりも先に天が創造されたということです。これが今日、私たちが心に留めるべき事柄です。
この「大空」と訳されているもとの言葉は、ハンマーで打ち伸ばされたもの、延べ広げられたものを意味するそうです。ですから、天の蓋、「天蓋」と訳されることもあります。
古代の人たちは、大空というものを、地を覆う丸天井のようなものと想像していました。そして、その丸天井の上には巨大な貯水池のような部分があって、神は、それを開いたり閉じたりすることによって、雨や雪や雹を降らせたり、風を吹かせたり止めたりしているのだと考えていました。太陽や月や星というのも、プラネタリウムのように、丸天井に散りばめられていると考えていたのです。
この箇所も、そうしたイメージを前提にして読むと分かりやすいと思います。つまり、大空という固い丸天井を造って、水をその上と下に分けたということです。
今日の私たちは、世界が古代の人たちがイメージしたようなものではないということを知っています。では、ここに書かれている天地創造の記事は、世界がどのようになっているかを知らない古代の人たちの記述、彼らの無知をさらけ出したような記事としてしか読めないのでしょうか。そうではありません。私たちはここに神の言葉を読み取らなければなりません。
聖書の中には、これ以降、ヨハネの黙示録に至るまで、何度も何度も「天」という言葉が出てきます。新約聖書だけでも284回出てくるそうです。「天」という言葉は聖書の中でも最も重要な言葉の一つなのです。
その天がどういうふうに使われているかを見てみますと、それは必ずしも、空の上、雲の向こうという意味ではありません。天とは神がおられる場所です。私たちが決して到達することのできない場所であり、天使たちが神に仕えている場所です。神はそこで天と地を支配しておられるのです。
確かに昔の人たちは雲の向こうにそういう世界があると考えていました。彼らにとっては、雲の上の世界は、決して到達することのできない領域だったからです。ですから、あの雲の上の天という場所で、神は天と地の両方を支配していると信じていました。
私たち人類は今日、雲の向こうまで行くことができるようになりました。月までなら既に何回も行きました。そして、行こうと思えば、月のもっと向こうまでも行く技術を人類は持っています。しかし、そのようにしてどんどん宇宙の果てにまで行ったとしても、そこで神に出会えるわけではありません。それにもかかわらず、私たちは、神は天におられて、私たちの世界を支配し、導いておられると信じています。ですから、「天にまします我らの父よ」と祈るのです。
聖書が「天」と言う時、それは私たちの住んでいるこの世界とは質的に違う世界のことを語っています。そういう意味では、この大空も宇宙も全て、地に属する世界と言うことができます。それは、私たちの住んでいる世界の延長線上にあり、いつかは到達できる世界であるからです。天とは、私たちの側からは決して到達することのできない、知ることのできない世界、私たちの目の届かない世界なのです。
創世記のこの天地創造の記事を書いた人たちは、「われわれの目に見えない世界、われわれのこの地上の世界とは質的に異なる世界が存在するのだ。そして、神は、まず天という世界を創造し、その次にこの地上の世界を造られたのだ」という信仰を言い表しているのです。
この順序が大切です。天の世界は私たちのこの地上の世界に優先するのです。ですから、私たちは「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのです。御心、神の意志は、天においては一足早く実現しているのです。
私たちの世界はこの天を仰ぐ世界です。この天を持っているからこそ希望があるのです。逆に言えば、天を持たない世界には希望がないのです。
例えば、神が人を造られたということを語ろうとして、客観的に第三者のように語るならば、その神は私を造った神ではないということです。私を造った神について語ろうとすれば、それは地上にあって天を見上げる仕方でしか語ることはできないのです。私たちは、地上から天を見上げる仕方で思いを巡らせた時にのみ、今も生きて働いておられる神について考えることができるのです。神は天におられ、私たちは地上にいる。この言葉の意味を深く悟ること、それが、私たちが生きる上で最も基本的なことなのです。
教会を建てるということもそうです。神は天におられ、私たちは地上にいる、牧師も信徒も、この同じ場所から神を仰ぐところに立たなければ、教会は立たないのです。
今から二千年前に、この天から決定的な指令が下されました。それは、神の御もと、つまり、天からイエス・キリストが地上に来て人間となられるという指令です。その天へと私たちを招くためです。
地上の世界からは決して天に到達できません。そこには質的な断絶があり、しかも、隠されているからです。ただ一方的に天から地に向かってのみ道をつけることができ、橋をかけることができます。イエス・キリストは、その道をつけ、橋をかけるために天から降りてこられたのです。
ルカによる福音書はその時のことを2章の8節から12節でこう書いています。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである』」。
また、マタイによる福音書はイエス・キリストが洗礼を受けられた日のことを3章の16節から17節でこう書いています。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」。イエス・キリストが洗礼を受けられることによって天が開き、天と地がより近くになりました。
イエス・キリストは十字架にかけられ、復活されたあと、再びこの天に昇っていかれました。マタイによる福音書の終わりの28章の18節にイエス・キリストの言葉が書かれています。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。イエス・キリストは、教会だけではなく、また地上だけではなく、天と地の一切の権能を授かっておられるのです。
神がこの地上の世界を創造する前に天を造られたということは、何と幸いなことでしょう。普通、天地創造というと、私たちは目に見えるこの世界のことしか考えないのではないでしょうか。しかし、そうではないのです。神は目に見えないもう一つの世界、私たちの世界に優先する世界を造られました。
そこは、神が直接、支配しておられる世界です。イエス・キリストが神に右に座しておられる世界です。御心が既に実現している世界です。
そして、それは、私たちにとっては永遠のふるさと、やがて、私たちが帰っていく世界でもあります。
ヨハネによる福音書の14章の2節から3節で、イエス・キリストはこう言っておられます。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。
もっとも、この天は、ただ単に私たちが死んでから行く世界というだけではありません。神は、今もそこにおられ、そこから私たちのこの見える世界を導き支配しておられます。天はこの地上に向けて開かれているのです。向こうからこちらへと繋がっているのです。
神は今日もそこから私たちを見守り導いてくださいます。必要な糧を与えてくださいます。弱くされている者の味方をし、孤独な者を見捨てず、必要な裁きをなしてくださいます。そのお方のおられる天を仰ぎつつ、共にこの週の歩みを進めていきたいと思います。
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