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「最期を知る」
コリントの信徒への手紙二 11章12~15節
水田 雅敏
今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の11章の12節から15節です。
12節でパウロはこう言っています。「わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。」
伝道するということは一つの戦いです。それはまず、神に背くこの世の力との戦いです。それと共に、伝道は教会の中における戦いです。間違った信仰を伝えて、正しい信仰に立つ人を覆そうとする者もあるからです。そういう意味で、教会は正しい信仰生活をするために、常に目に見える形で、あるいは目に見えない形で戦っています。
パウロがここで、「わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たち」と言っているのは、前回学んだ10節の「誇り」と関係があります。10節に「このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません」とあります。
「わたしが誇る」とありますが、これはパウロがコリントの教会の人々に負担をかけずに伝道したことです。神の福音を無報酬で告げ知らせたことです。
それに対して、12節の「誇れるようにと機会をねらっている者たち」というのは、それとは違った意味で、「使徒としての誇りだけは得たい」と思っている者たちです。
これに対するパウロの態度はまことに厳しいものでした。彼らから使徒としての誇りを得る機会を断ち切ろうというのです。パウロがこの戦いをどんなに深刻に考えていたかが分かります。教会の歩みを正しくするためにはそのような覚悟が必要だと思っているのです。
13節にこうあります。「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。」
「偽使徒」とありますが、これは本当の使徒ではないということです。では、偽使徒と本当の使徒との違いはどこにあるのでしょうか。
使徒というのは神の福音を告げ知らせるために神から遣わされたことを誇りとしている者です。使徒にとっては神の御心が一番大事なのです。彼らの務めは神のためにあります。 偽使徒というのはそこのところに問題のある者です。偽使徒も大いに活躍するかもしれません。しかし、それはいつでも自分のためでしかありません。自分の利益と名誉のためです。
14節から15節にこうあります。「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」
パウロは偽使徒を「サタンに仕える者たち」と言っています。彼らはサタンの手下だというのです。パウロにはそのように考える根拠がありました。それはサタンが「光の天使を装う」こともあり得るということを知っていたからです。
旧約聖書の創世記にはエバが蛇に誘惑されたことが書かれています。なぜ、エバは蛇に誘惑されたのでしょうか。昔の人はこう考えました。「エバが誘惑されたのは蛇が天使に化けていたからだ。」その時、エバが見たのは蛇ではなくて天使だったというのです。これは、エバがいかにして誘惑されたかのもっともらしい説明になりましたし、サタンが天使に偽装することもあり得ることの説明にもなりました。そうであるなら、サタンは私たちの近くにもいることになります。
15節に「義に仕える者」とありますが、これは教会の奉仕者のことです。偽使徒たちが教会の奉仕者のような顔をして働いているのです。もし、こういうことが教会の中にあるとすれば、どういうことになるでしょうか。
パウロはこういうことを語りながら驚いているのではありません。14節に「驚くには当たりません」とあります。また15節に「大したことではありません」とあります。パウロは偽使徒が活動することを少しも恐れませんでした。なぜなら、彼らの「最期」を知っていたからです。15節に「彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう」とあります。偽使徒たちがいずれ最期の時を迎えることを分かっていたのです。
ここで思い起こすのは旧約聖書のエレミヤ書の51章の6節から10節です。「お前たちはバビロンの中から逃げ おのおの自分の命を救え。バビロンの悪のゆえに滅びるな。今こそ、主が復讐される時 主はバビロンに仇を返される。バビロンは主の手にある金の杯 これが全世界を酔わせた。国々はその酒を飲み そのゆえに、国々は狂った。にわかに、バビロンは倒れ、砕かれた。バビロンのために嘆け。その傷に乳香を塗れ。いえるかもしれない。我々はバビロンをいやそうとした。しかし、いやされはしなかった。バビロンを捨てて、おのおの自分の国へ帰ろう。バビロンの審判は天に達し、雲にまで届いた。主は我々の正しさを明らかにされた。さあ、我々はシオンで 我らの神、主の御業を語り告げよう。」
10節に「主の御業を語り告げよう」とあります。教会は「主の御業」をいつでも明らかにすることが大切です。それがサタンから教会が守られる一つの道です。
では、「主の御業」とは何でしょうか。「主の御業」はここでは主の裁きとして表されています。しかし、それには大切なことがあります。それは主なる神の勝利ということです。
私たちは神を信じて生きていますが、そのことにはいろいろな意味があります。神が生きて働いておられるということもその一つです。神が裁きを行われるということもその一つです。それらのことを通して私たちが堅く信じるべきことは神の勝利です。神は必ず勝つお方だということです。
地上にある限り、教会も私たちの生活も揺れ動きます。その中にはいろいろな勝ち負けがあるように思えるかもしれません。しかし、最後には神が勝つということこそ、私たちの信仰生活の大事な点です。昔からキリスト者はこのことで苦しみ、このことで勝利を得ました。自分たちが負けたように見えるときも、神の最後の勝利を信じて疑わないというのが私たちの信仰です。私たちの勝利ではありません。神の勝利です。
なぜ、パウロはこのようなことを手紙に書いたのでしょうか。それは第一に、これを受け取ったコリントの教会にそういう問題があったからです。それが聖書に取り入れられたのは、同じようなことがいつの時代でも世界のどこでも繰り返されるからです。どこでも同じような問題に苦しむということです。
しかし、こういうことを少しも遠慮をしないで載せている聖書とはどういう書物でしょうか。聖書は「聖」なる「書」と書きますが、どこがどう聖いというのでしょうか。それはサタンの手下になった人間を軽蔑するためでしょうか。そうではありません。そういう出来事の中にも罪に対する神の赦しがあることを知っているからです。そういう意味で、ここに書かれていることもまた信仰の大切な証しなのです。
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