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「あなたがたを造り上げるため」
コリントの信徒への手紙二 12章19~21節
水田 雅敏
今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の12章の19節から21節です。
19節の前半でパウロはこう言っています。「あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。」
ある人が、「キリスト教の学問の本質は弁護することにある」と言いました。キリスト教の神学には多くのことがあるけれども、それは要するに、信仰を知らない人々に対して信仰とは何かということを説明することだというのです。
それは伝道についても言えることだと思います。伝道には少なくとも二つの面があります。一つは、こういう救いが神から与えられたと語ることです。もう一つは、それを信仰のない人に説明することです。それはいきおい弁護のようになるだろうと思います。
パウロの手紙を読みますと、相手の教会に対して、信仰について、また信仰のために働いている自分について、必死に説明していることが分かります。しかも、相手はパウロの立場がよく分からずに非難しようとすることが多いので、その説明が自己弁護のように見えることもありました。
では、パウロ自身はどういうつもりで話していたのでしょうか。
19節の後半にこうあります。「わたしたちは神の御前でキリストに結ばれて語っています。」
「神の御前で」とあります。これは「神に面と向かって」ということです。自己弁護というのは人の目を気にしながら話すことが多いと思います。しかし、パウロは信仰について話すときはいつも神に向かって話しました。それは、本当の相手は人間ではなく神だということです。神に対して自分の信仰を言い表しているのです。
「キリストに結ばれて」とあります。これは自分の語ることのすべてが、キリストの支配を受け、キリストの指示によるということです。話をするときはとかく、語る相手に影響されがちです。そのときにキリストの影響のもとに語るのです。それが信仰を語るときの態度です。
もう一つ大切なことがあります。
19節の後半にこうあります。「愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」
自己弁護の場合にはいかにも自分のことばかり考えているかのように思われるかもしれません。しかし、パウロが何よりも心にかけていたのはコリントの教会の人々のことでした。
「あなたがたを造り上げる」とあります。これには二つの意味があります。一つは、キリスト者一人一人の信仰を成長させるということです。もう一つは、教会を造り上げるということです。この二つのことは一つです。つまり、キリスト者というのは教会において成長するということです。私たちの成長は教会をほかにしては考えることができないのです。私たちが成長するということと教会が成長するということとは深い関係があるのです。
パウロはこれまでコリントの教会の人々のために自己弁護とも思われるような話し方をしてきました。しかし、それは、結局はキリストの教会ができることを願ってのことであり、その中にあってコリントの教会の一人一人が信仰において成長することなのです。
その際、パウロには心配なことが幾つかありました。
20節の前半にこうあります。「わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。」
簡単に言えば、会ったときにお互いに失望するのではないかということです。
パウロのほうから言えば、彼は長い手紙を書き、使者を送って、信仰を伝えてきました。しかし、話は事あるごとに食い違い、コリントの教会の人々には自分の話してきたことがなかなか分かってもらえませんでした。力を尽くして彼らを導こうとしたけれども、それが無駄になってしまうのではないかと思っていたのです。これは伝道する者なら誰でも経験することなのではないでしょうか。
それに対してコリントの教会の人々はパウロをどのように見ていたでしょうか。彼らは必死になって信仰の話をしているパウロを見ながら、その心が分らず、彼は自己弁護ばかりしていると思っていました。そのようにパウロの労苦すら理解できなかったのであれば、おそらく彼に対する期待も正しくはなかったでしょう。
パウロはコリントの教会の人々が自分に対して何を望むかを知っていました。それが自分たちの都合のいいようにしか考えていないことを知っていました。そのために、こういう結果になるかもしれないと心配していたのです。
20節の後半にこうあります。「争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。」
ここにはパウロの心配事が幾つも挙げられています。例えば、「党派心」ですが、コリントの教会にはペトロ派、アポロ派、パウロ派といった党派がありました。わたしはペトロ先生につく、わたしはアポロ先生につく、わたしはパウロ先生につくと言い争っていたのです。パウロはそれを考えただけでも、自分がコリントの教会へ行ったらどのような混乱が起こることになるか心配しないではいられなかったのです。
21節にこうあります。「再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。」
当時、コリントは退廃的な町として知られていました。そのことはコリントの教会の人々にも少なからず影響を与えていました。パウロの心配は彼らが過去の行いについて本当には悔い改めてはいないのではないかということです。今までのやり取りからそう思わずにはいられなかったのです。
このように今日の聖書に書かれているのはまことにあからさまな話です。赤裸々な話です。パウロはそれを率直に語っています。そこにはコリントという町の事情もありました。ですから、どこの教会でも同じというわけではないでしょう。しかし、伝道者が自己弁護ばかりしているように見えたり、しかも伝道者自身は神の御前でキリストに結ばれて語っているということ、伝道者なるゆえに負わなければならない十字架があるということ、そして、すべてはキリスト者一人一人の成長と教会を造り上げるためであることは、いつの時代、どの場所においても変わることのないことなのです。
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