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「究極の完全な賜物」
ヤコブの手紙1章16~18節
水田 雅敏
私たちが神に対して抱く思いとか期待といったものは人によって異なりますし、様々です。どのような神のイメージを心の中に描くかは、言ってみればその人の自由であって、だれからも強制されたり制約を受けたりすることはないものです。しかし、神の実像からほど遠い神のイメージを勝手に心の中に描いて、その神と自分との関係を考えていこうとすると、そこには大きな危険があります。
そのようになりがちな私たちに対して、ヤコブは今日の聖書の16節で、「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません」という警告を発しています。神に対する思い違いをしてはいけないというのです。では、その思い違いとはどのようなことを指しているのしょうか。
ヤコブは17節で、当時のキリスト者たちが抱いていた神に対する思い違いの一つを、譬えを用いて明らかにしています。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。」
天には光を放つ様々な天体があります。例えば、太陽や月や星がそうです。そういったものは当時のユダヤの人々にとっては命を持つ生き物でした。それは命と光の源である神から造られたものであり、神から光を与えられたものであり、神から光を与えられているからこそ光を放つことができる、そういうものとして理解されていました。
ところが、この神によって造られた諸々の天体には移り変わりがあります。陰を生じさせることがあります。例えば、月が昇り、日が沈むというように、昇る、沈む、回転するといった言葉で表すことができる周期的な変化があります。あるいは日蝕とか月蝕という蝕による陰が生じることもあります。明るさやその位置に絶えず変化が生じる、これが天体の一つの特徴です。
それは現代の私たちの天体に関する知識によって説明できることですが、しかし、古代の人々はそれとはまったく違った考え方をしました。そのように天体が移り変わり、陰を生じさせるという事柄を倫理的な、道徳的な、人格的なものとして考えていたのです。つまり、天体に生じる移り変わりとか陰というのは、その天体を造り、それに光を与えた光の源である神御自身の中にある移り変わりと、神の中にある陰を反映しているものだと捉えていたのです。
そして、そのことは人間のことにまで結びつけられていました。つまり、われわれ人間に気まぐれな部分があり心の思いに様々な変化が生じる、あるいは人間に暗い部分があり悪の部分がある、それは神御自身の中にある移り変わりとか神の中にある陰を反映しているものだと考えていたのです。天体の移り変わりや陰が神によるものであると同じように、その神から造られた人間の様々な変化や陰の部分も神にその責任があると捉えていたのです。
それに対してヤコブは、「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません」と言って諭しているのです。われわれ人間が示す様々な悪、誘惑に負けてしまう陰の部分、それは神のせいだというように、神にその責任を押しつけることは大きな間違いなのだと言っているのです。
テモテの第二の手紙の2章の13節に次のような言葉があります。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。」
わたしたちは真実でない、誠実でない、あるときは真心を込めて主に仕え、あるときはまったく主から離れてしまう、そういう移り変わりが私たちの信仰にもあります。しかし、私たちが誠実でなくても、イエス・キリストは常に真実であられます。真実であるというのは、その愛において、その慈しみにおいて、その憐れみにおいて、またその救いの意志において、変わることのないものを持っておられるということです。それはイエス・キリストの神がそうあられるからです。そして、その神の真実は私たちに対しても向けられています。ですから、私たちは自らの悪や誘惑に負けることを神のせいにするという思い違いをしてはならないのです。
そのように、神は真実な神であられるならば、その神から私たちに差し出されるもの、神が私たちに与えてくださるもの、神から送られてくるものはすべて良い贈り物です。私たちの命と救いにとって完全な賜物を神は贈ってくださるのです。それが今日の聖書の17節の「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」という信仰の告白となって言い表されているのです。
神は私たちが御心に適った生き方をする者となるために必要なもの、真の命を得て、希望をもって生涯を終えることができる者となるために必要なすべてのもの、完全な賜物を、惜しみなく与えてくださるお方です。その賜物によって私たちは今日までキリスト者として歩むことができました。またこれからもこの賜物によって私たちは希望をもって生涯を閉じることができる者とされます。
そういう中で私たちは神からの究極の贈り物であるイエス・キリストに心を向けさせられます。ヤコブも18節の前半で次のように語っています。「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。」
「真理の言葉」とあります。ここで言われる「真理」というのは、単なる客観的な事実の正しさとか、科学的な解明の結果得られた動かしがたい事実という意味のことではなくて、むしろ人格的なものです。人が信頼するに足るもの、それによって人が生かされて希望を抱くことができるもの、そういう性格の真理のことです。そうであるならば、それは神が私たちのために送ってくださったイエス・キリスト以外にあり得ません。良い贈り物、完全な賜物、その究極はイエス・キリストです。
ヨハネによる福音書の14章の6節でイエス・キリストは次のように語っておられます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
この「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」という言葉は、裏を返せば、「イエス・キリストを通れば、だれもが父のもとに行くことができる」という積極的な内容を含んだ言葉となります。
イエス・キリストによって私たちは神を知り、また自分という人間を知ることができる者とされます。イエス・キリストによって私たちは生きる意味や人が究極的に目指すものが何であるかということを示されます。つまり、イエス・キリストによって私たちは新しく生まれ変わることができるのです。この新しい命を、神はイエス・キリストを贈ることによって私たちに賜物として与えてくださっているのです。
前回学びました14節から15節においては、人間の持つ欲望が罪をはらんで、それが人を死に至らせるというように、人間の欲望と死の関係が語られていました。ヤコブは今度は、イエス・キリストによって人は新たに生まれ変わる、死ではなくて新しい人がイエス・キリストによって誕生するということをここで語っています。死の場合は欲望や罪が自分自身と一つになって死に至るということを言いましたが、ここでは逆に、イエス・キリストが私と一緒になって新しい私、新しい人間の創造を起こしてくださると告げています。
罪に誘惑されることのある私たちです。しかし、神はそのような私たちをイエス・キリストを通して、死ではなくて命に、新しい存在に生まれ変えさせようとしておられるのです。そのために必要な賜物、贈り物はイエス・キリストにおいてすべて私たちに差し出されています。そういう神の愛、救いの意志の対象になっている自分であるということを知ること、それが私たちにとって極めて重要なことなのです。
最後にここでもう一つ受けとめておきたいことがあります。それはそのように人間がイエス・キリストにあって新しく造り変えられることが「造られたものの初穂」と語られている点です。18節の後半にこうあります。「それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。」
イエス・キリストにあって新しく造り変えられ、神の国の一員とされたわたしたちは、いわば造られたものの初穂とされたのだと言います。わたしたち人間が新しくされるということは神がお造りになったすべての被造物全体が新しく生まれ変えられることの始まりだというのです。
そこに私たちは光栄を覚えると共に大きな責任をも覚えさせられます。すべて造られたものが新しくされていくための初穂として、始まりとして、私たちはイエス・キリストにあって新しく造り変えられました。それは真理の言葉イエス・キリストによってなされたことでした。そうであるならば、初穂としての私たちの責任はこの世界を真理の言葉イエス・キリストの福音で満たすことです。その業に仕えることです。
神は私たちの理解を超えた世界全体の救いの計画をもっておられます。そして、既にそれが私たちの新しい誕生において始まっています。この神の救いの業に参与していくのがキリスト者であり、教会です。教会はあらゆる業を通してそのことに専念していくのです。
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