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「信仰の完成」
ヤコブの手紙2章20~26節
水田 雅敏
ヤコブがこの手紙全体で問題にしていることは、信仰と行いはどのような関係にあるかという点にあります。今日の聖書の箇所でヤコブは、信仰は決して内面の問題にとどまるものではなくて、必ず表に表れ出るものであることを二つの例をもって明らかにしています。それは旧約聖書に記されています、アブラハムに関するものとラハブに関するものです。
ヤコブはまず21節から24節でアブラハムのことを取り上げています。
この中でまず注目したいのは、23節の「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という言葉です。これは創世記の15章の6節の言葉です。神はアブラハムの子孫が星の数のように増えるということを、まだ子供がいないアブラハムに約束されました。アブラハムはそれをそのまま信じました。神はそれを彼の義とお認めになりました。それは神がアブラハムの信仰、神の約束に対する疑いを知らない信仰を本物と御覧になってアブラハムを受け入れられたということです。
ヤコブは、アブラハムのそのような信仰は信じることだけに終わらずに、それはいつか形をとり、行いとして表に表れ出てくる信仰だったと捉えています。そしてその信仰から生まれ出た行いの代表的なものとして、創世記の22章に記されている出来事、アブラハムが神から命じられるままに独り子イサクを神に献げようとした出来事を持ち出します。そこに信仰が行為に移されている関係を見ているのです。
21節から22節にこうあります。「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」
アブラハムの信仰は心の内側において神を信じることに留まらず、その信仰は神の約束に従うという行いにまで至るものだった、アブラハムは心で信じることと信じることから出てくる行いとの二つによって神から義と認められ、救いの約束をますます確かなものとして受け取ることができるようにされたのだとヤコブは言うのです。
そして、そこから結論的なことが導き出されます。24節にこうあります。「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」
これは誤解を招きやすい言葉かもしれません。なぜなら信仰よりも行いのほうが強調されているように受け取られかねないからです。もちろんヤコブは信仰を否定しているのではありません。「信仰だけによるのではありません」とあります。つまり、信仰だけでよいのだ、心で信じていればそれでよいのだ、行いは二の次であって、信じることだけで十分なのだという考えの中にある行いを軽んじる在り方をヤコブは否定しているのです。
アブラハムの行いは信仰を抜きにして出て来る行いではありませんでした。イサクを神に献げる行動は信仰が背後にあって、その信仰に基づいて神の命令に応えるものでした。そこでは信仰と行いとがまさに一体でした。アブラハムは信仰に何かを付け加えて、神の心証をよくするためにイサクを献げようとしたのではありません。むしろその行為は信仰それ自身が持っている内的な力が表に表れ出たものでした。
そしてこの手紙を読む教会の人々も、そして私たちも、そのように行いに結びつく信仰、信仰が行為となって表れてくることを目指すべきだと訴えられているのです。
私たちの救いの根拠は、私たち人間の側にあるのではなくて、神の側にあります。神が私たちを受け入れてくださった、そこに私たちの救いの根拠があります。そのことを信じる信仰は一人の人間においてどのような働きをするかということを考えるときに、ヤコブはどうしても行いをも問題にせざるを得なかったのです。
内にあるものは必ず表に表れ出て来るものです。もし表に表れ出ない信仰であるならば、20節に行いの伴わない信仰が役に立たないと言われているとおり、それは空しいもの、独りよがりのものになってしまいます。
ヤコブは続いて、ラハブを引き合いに出します。25節にこうあります。「同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたのではありませんか。」
ラハブの物語はヨシュア記の2章に記されています。モーセに代わる新しい指導者ヨシュアは、ヨシュア記の2章1節に記されていますように、二人の斥候、すなわち二人のスパイをエリコの様子を探るために先発隊として送り込みます。ところが、そのことがエリコの王に知られるところとなって、この二人の身に危険が及びます。そのとき、ラハブはこの二人を家にかくまって、無事に彼らを送り出したのです。
ヤコブは、それは信仰が勇気ある行動に結びついていることのしるしだというのです。ラハブは二人のスパイが無事に帰ることができるようにという祈りだけで終わることはしませんでした。その祈りと神への信仰が、危険を冒してまでも二人をかばい、彼らを無事に送り出す行為として表わされました。ここにも信仰と行いの結びつきがあるとヤコブはいうのです。
アブラハムにおいてもラハブにおいてもこの二人に共通してみられること、それは何でしょうか。それは、信仰が行いとなっていること、信仰に行いが伴っていること、そしてこの二人はそれを誇りに思っていないけれども、神はその信仰とその行為を喜んで受け入れておられるということです。そのことにあなたがたは目を向けてほしいとヤコブは訴えているのです。
これらのことによってヤコブが問題にしているのは、イエス・キリストへの信仰を持っていると言う人、イエス・キリストを救い主として信じていることを自負している人が、その信仰に結びつく行為なしで存在し得るものであるのかということです。信仰は、個人の内面の満足で終わって、そこから生み出す実を成らさないということはあり得ない、それは生きた信仰ではない、ヤコブはそのことを強調して、何とか教会の人々に受け止めてもらいたいと願っているのです。
26節にこうあります。「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」
人間にとって魂と肉体、すなわち精神と肉体は分けることのできないものです。それと同じように、生きた信仰はそれに基づく行いと共に一人の人間の中で車の両輪のように働くものだとヤコブはいいます。
行いが伴わない信仰は、信仰それ自体は十分なものだけれども、行いがない点においてちょっとした足りなさを持っているというようなことではありません。むしろ行いが伴わない信仰は信仰それ自体が問題なのではないか、信仰の一部分に足りなさがあるというのではなく、信仰それ自体が生きた信仰ではないのではないかとヤコブはいうのです。
これは極めて厳しく、鋭い問いかけですが、私たちはそれを謙虚に受け止めたいと思います。信仰と行いとは私たちが生ける神を現実に体験する切り離し難い二つの面であることを覚えたいと思います。その両面を大切にしたいと思います。
私たちが信じる神は実行する神、行動する神です。とりわけイエス・キリストにおいて私たちの救いのための愛を実行されました。その神は今、聖霊として私たちに臨んでくださり、私たちに「イエスはキリスト、救い主である」との告白を生み出してくださるだけでなく、その告白に立った具体的な働きをも私たちに生じさせてくださるお方です。
私たちの力だけでは為し得ない行動も、聖霊の助けがあるならば、それを為すことができる、それが神の約束です。「聖霊によって私たちの信仰をいよいよ強め、あなたの御旨に適ったそれぞれの業へと私たちを導いてください」と私たちは共に祈る者でありたいと思います。
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