「神に対する感謝の念」

         コリントの信徒への手紙二 9612節 

                   水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の9章の6節から12節です。

この箇所はエルサレムの教会の困窮する人々を支援する話の続きです。

エルサレムの教会の困窮する人々を支援する話は8章から始まっています、ですから、8章、9章と二章に渡っています。支援の話が少し長すぎるような気もしますが、これにはどのような意味があるのでしょうか。

それはパウロが、ただ支援の話をするだけでなく、この話を通してコリントの教会の人々の信仰を深めたいと願っているからです。支援の話を通して彼らの信仰を成長させようとしているのです。

9章の6節にこうあります。「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」

「惜しんでわずかしか種を蒔かない者」とあります。これは支援をする際に惜しみながらする人のことです。支援をするときの一つの問題は与えるのが惜しいと思うことです。何だか自分が減ってしまうような気がするのです。そういう人は「刈り入れもわずかだ」とパウロは言います。神の恵みを十分に得ることができないというのです。

その反対に、惜しまず豊かに蒔く人は「刈り入れも豊かだ」とパウロは言います。「豊か」とありますが、これのもとの言葉は「祝福」という言葉です。支援というのは相手を祝福しながら行うことなのです。

では、相手を祝福するとはどういうことでしょうか。相手の幸福を願うことでしょうか。祝福というのは実は神にしかできないことです。支援とは、神がその人を祝福してくださるように、という願いをもって行うものなのです。神の祝福を願って支援をする人は、その人自身も神の祝福を受けることができるのです。

パウロはさらにこう言っています。7節にこうあります。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」

「不承不承ではなく」というのは、憂いによってではなくということです。支援をするときに私たちが思うことの一つは、自分の貧しさ、自分の弱さでしょう。その弱さから抜け出して「喜んで」支援をするためにはどうしたらいいのでしょうか。「こうしようと心に決めたとおりに」とパウロは言います。

ここで思い起こすのはマタイによる福音書の6章の3節です。そこでイエスはこう言っておられます。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。」

施しをするとき、私たちは人の目を気にします。しかし、そもそも施しというのは誰の前ですることなのでしょうか。

イエスは続けてこう言っておられます。「そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

私たちの信仰生活はいつでも、隠れたことを見ておられる神を相手にします。つまり、支援は神に向けられることなのです。

ですから、「こうしようと決めた心」というのは神に接して造られた心です。すなわち信仰です。その信仰を支援に向けていくのです。神はその信仰に生きている人を愛してくださるのです。

今日の聖書の8節にはその愛の内容が書かれています「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」

神は私たちがあらゆる善い業に満ちあふれるように、恵みで満ちあふれさせてくださるのです。

このことについてパウロは旧約聖書から証しします。

9節にこうあります。「『彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く』と書いてあるとおりです。」

ここで引用されているのは詩編の112篇の9節です。

この言葉は信仰をもって支援を行う人に対する神の祝福が何であるかを示しています。それは「彼の慈しみは永遠に続く」ということです。支援する人の慈しみは永遠に続くのです。なぜ、支援する人の慈しみは永遠に続くのでしょうか。

10節にこうあります。「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」

支援をするときに抱く慈しみの心はもともと私たち自身のものではありません。それは神が与えてくださるものです。慈しみはもともと永遠の神から出ているものなのです。ですから、それは永遠に続くのです。

11節から12節にこうあります。「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。」

11節に「あなたがたはすべてのことに富む者とされて」とあります。支援をする人がすべてのことに富む者とされるというのは興味深いことです。支援は支援する人の持ち物を減らします。それなのに富む者とされるというのです。それだけではありません。支援することがますます盛んになります。

なぜでしょうか。それは、支援をするとき、神から恵みを与えられて、私たちの心に「神に対する感謝の念」を引き起こすからです。支援は恵みを与えてくださった神に対する感謝であり賛美なのです。それが「富む者とされる」ということです。支援はこうして私たちを豊かにするのです。

 

もちろん、これは支援のことだけではありません。信仰においては、あらゆることが神に対する感謝と賛美をもって結ばれます。これが私たちキリスト者の教会生活、信仰生活の姿なのです。