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「人は信仰によって生きる」
ヘブライ人への手紙11章1~7節
水田 雅敏
今日からヘブライ人への手紙の11章に入ります。
この11章は、読むと分かりますように、「信仰とは」、「信仰のゆえに」、「信仰によって」、「信仰がなければ」と、いったい幾つ「信仰」という言葉が出てくることでしょうか。多くの言葉をここに重ねながら、信仰を問う問いが広められ、深められ、時には揺さぶられて、私たちの心に迫ってきます。
その最初に出てくるのはこういう言葉です。1節にこうあります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
私たちは信仰を持つことによって、そのお陰で、目に見えるものに振り回されないで、見えない神の働きに信頼を置き、望みをかけて生きることができます。ですから、その目に見えない神の働きが見えなくなり、その働きを語る御言葉が聞こえなくなってくると信仰がぐらついてきます。
そのときに私たちがもう一度、自分の信仰を捕らえ直すにはどうしたらいいでしょうか。
2節にこうあります。「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」
「認められました」とあります。ある人は、この「認められた」というのは卒業証書のようなものだといいます。ある人が学校で一生懸命勉強して卒業します。その時に学校が、この人はこれこれの学びを修めてこの学校を卒業したことを認めると卒業証書を与えます。その時、先生はよくやったねと生徒を誉めてくれます。そのように、われわれに先立って生きた人たちは、そういう信仰に生きていたから神に誉めていただいた、神に誉めていただく信仰の歩みを続けてきたというのです。
そこで、この手紙の著者はその誉められた人たちの物語を読みましょうと言って旧約聖書の創世記を開きます。
3節にこうあります。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」。
創世記の最初を開いてすぐに気がつくのは、まだ人間が出てきていないということです。信仰によって生きる人はまだ出てきません。神だけが働いておられます。ですから、この3節の「信仰によって」というのは4節以下の「信仰によって」というのと意味が違います。3節の「信仰によって」というのは私たちの信仰です。私たちが信仰によって天地創造の物語を読むとき、神の言葉が響いたからこそ、見えないところから見えるものが生まれたということが分かるのです。見えるものの背後には必ず見えない神の働きがあることが分かるのです。
4節以下には創世記に出てくる信仰者について語られています。
最初に出てくるのはアベルです。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」
人類最初のカップル、アダムとエバには二人の子供がありました。兄のカインと弟のアベルです。カインは土を耕す者、つまり農耕を営んでいました。彼は神に献げ物をする時に自分の畑仕事からの実りを献げました。アベルは羊を飼う者でした。彼は自分が飼っている羊の中で肥えた最初の子羊を献げました。
そして、創世記は4章の4節以下にこう語っています。「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」
カインはこれに腹を立てて、アベルを殺してしまいます。
そこで、昔から問われてきたのは、なぜ神はアベルの献げ物だけを顧みられたのかということです。
この手紙の著者はここではっきりと言っています。「アベルはカインより優れたいけにえを神に献げた」。どこが優れていたのでしょうか。それは献げ物自身に値打ちがあったかないかということではありません。信仰をもって献げたかどうかということです。言い換えれば、カインは信仰を持っていなかったのです。自分の献げ物を受け入れられなかったたった一度のことのために弟を殺すようなカインに神への信頼はなかったとこの手紙の著者は見ているのです。神が認めてくださったのは信仰です。献げ物はそのしるしでしかなかったのです。
「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」とあります。
ある人がこの言葉についてこう説明しています。「アベルは今、我々を執り成していて、我々に目に見えない現実を指し示している。」
神が、信仰によって生きた自分のような者を認めてくださる神であること、自分はその神に認められて、今、死の彼方にあってなお生きているのだということを、アベルは私たちに指し示しているというのです。
そこで5節にそれを受けるようにこう語られています。「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」
創世記の5章の24節を読みますとエノクについてこう書かれています。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」。
目の前でふといなくなってしまったというのです。
それをこの手紙の著者は「天に移されました」と言っているのです。そして、エノクがなぜそのようになったかというと、やはり信仰によって生きたからだというのです。
その信仰は「神に喜ばれる」ものでした。アベルの信仰が神によって喜んで受け入れられたように、信仰とは神に喜ばれるものなのです。
そして、神に喜ばれる信仰とは何かということを6節に語っているのでありますけれども、そのことについては最後に見ることにして、先に7節を見ておきたいと思います。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」
ここには驚くべき言葉が書かれています。ノアがその信仰によって世界を罪に定めているというのです。どういうことでしょうか。これは、ノアが信仰に生きたがゆえに、そこに、私たちが真っすぐな道を歩いているかどうかを見分けることができる物差しが見えているということです。ノアの信仰に照らし出されて、私たちが今ここで信仰を持っているかどうかを問われるのです。
そこで6節を読みます。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」
「神に近づく」という言葉がこの手紙の著者の最も愛する言葉の一つだったことを私たちは知っています。この手紙の著者は大祭司イエスについて語り続けてきました。われわれにとっては大祭司イエスがおられるのだから、はばかることなく大胆に神に近づこうではないか。
そのように大祭司イエスを見上げながら神に近づくとき、その近づく者の中にある信仰とは何か。それは神が存在しておられることと、神が御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを信じることだというのです。
神が存在しておられること、そして、神が御自分を求める者たちに報いてくださる方であること、これは二つのことであって一つのことです。神は存在しておられるけれども報いてくださるかどうか分からないということではないのです。
この「報い」というのは、神は御自分を呼び求める者に必ず答えてくださるということです。信仰とは神が答えてくださることに全ての信頼を置くことなのです。
私たちはそこで自分の信仰がはなはだ心もとないものであることに気づかされるのではないでしょうか。私たちは毎日の生活の中で様々な悩みを持っています。いろいろな問題があります。それが解けないと言って訴えます。時には腹を立てることもあります。けれども、実はこの手紙が語っているように、神が生きておられることと、神が必ず答えてくださるということを信じるならば、それらの問題はすべて消えてしまうのではないでしょうか。自分の不信仰に根ざす悩みに捕らわれていることが実は多いのではないでしょうか。
信仰とは何か、それは答えてくださる神の存在を信じることです。そして、その時、神が喜んでくださるということを私たちの喜びとするということです。
信仰がなければ神に喜ばれることはないということは、言い換えれば、神に喜ばれることを何よりも喜びとしないところには信仰はないということです。
神に喜ばれることを自らの喜びとする思いのあるところ、私たちには信仰があります。
「アベルは、死にましたが、信仰によってまだ語っています。」「信仰によって、エノクは、死を経験しないように、天に移されました。」「信仰によって、ノアは…信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」私たちもまたこのような確かな命に生きることができるのです。
10章の39節の最後にあるように、「信仰によって命を確保する者」というのは、まさに、これらの先輩たちのことであり、その先輩たちに続く私たちのことなのです。
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