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「キリストの叫びと涙」
ヘブライ人への手紙5章1~10節
水田 雅敏
今日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙の5章の1節から10節です。
7節にこうあります。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫びをあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」
「肉において生きておられたとき」という言葉があります。これのもとの言葉は「ご自身の肉の日々」です。イエス・キリストは私たちと同じ肉を取り、同じ人間の心と肉体を御自分のものとしてくださり、その後30何年間か生きたその日々、一日一日が叫びと涙だったというのです。
私たちはこういう言葉を読むと驚きます。戸惑いを覚えます。イエス・キリストが私たちと同じように叫んだのか、泣いたのか、そう思いながら、ふと思うのは、それはキリストらしくないことではないか、ということではないでしょうか。
なぜこのようなことが書かれているのでしょうか。
「祈りと願いとをささげ」とあります。このイエス・キリストの叫びと涙は何よりもまず神に対するものです。神に対する祈りと願いにおいてこのような叫びと涙があったのです。
考えてみると、私たちがどんなに祈りに熱心だったとしても、これほどに叫び、涙を流しながら日々祈ることはないと思います。
イエス・キリストは祈りに徹しました。キリストがキリストであられることの本領は、むしろ命を注ぐこの祈りと願いにこそあったのです。
なぜでしょうか。
「御自分を死から救う力のある方」とあります。
この言葉が示しているように、一つは死に関わります。イエス・キリストが私たちと同じ者となってくださったというのは、キリストもまた死に直面なさったということです。ですから、死に向かって立ちながら神に叫ばずにいられない恐れを覚えておられたと見ることもできます。
このイエス・キリストの叫びと涙を思い浮かべるときに、多くの人々は何よりも、主イエスが十字架につけられる前の夜にゲツセマネで祈りを献げられたこと、血の汗を流して祈られたことを思い起こします。それは当然ですし、間違っていないと思います。
ただ私たちが知らなければならないのは、この手紙の著者は、「肉において生きておられたとき」と言うのであって、その毎日がゲツセマネの祈りに似た戦いだったというのです。
今日の聖書の箇所は多くの場合、4章の14節から続けて読みます。この新共同訳聖書でもそのような区切りになっています。
4章の15節に「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく」とあります。
イエス・キリストは祈りと願いをしておられるときに、私たちと同じようになりながら、しかも、さらに大祭司の務めをしてくださるのです。私たちを一生懸命に執り成してくださるのです。そのときに、イエス・キリストは私たちの弱さに同情できる方だというのです。
この「同情」というのは「苦しみを共にする」という意味です。イエス・キリストが私たちと同じ苦しみを苦しまれるのです。キリストの同情はそれほど深いのです。
今日の聖書の8節にこうあります。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」
「従順を学ばれました」とありますけれども、これはどういう意味でしょうか。
一つは、5節、6節に書かれている二つの旧約聖書の言葉がそのことを示しています。5節は詩編の2篇の引用です。6節は詩編の110篇の引用です。いずれも王が立てられる時に歌われる歌です。
それに基づいてこの手紙の著者が言いたいことは、イエス・キリストは神によって大祭司として立てられたのであって、ご自分でその地位にお就きになったのではないということです。その大祭司の務めが多くの苦しみによって従順を学ぶことだったのです。
9節に「完全な者となられた」とあります。
イエス・キリストはその従順の道を全うされたのです。そのようにして私たちの大祭司になってくださったのです。
このヘブライ人への手紙を読んでいくと、ほかの新約聖書の文書では学ばないことをいろいろ学びます。大祭司イエスということもそうです。そして、それとの関連で必ず覚える言葉があります。それは「メルキゼデク」です。
このメルキゼデクは旧約聖書に二度登場します。一つは詩編の110編です。もう一つは創世記の14章の18節です。ユダヤの人々の信仰の先祖であったアブラハムが、あるとき、いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクに会い、そのメルキゼデクから祝福を与えられるのです。
このメルキゼデクはのちに「神の都」と言われるようになったエルサレム、それがここでいう「サレム」でありまして、そこの王であり祭司でした。その祭司は時には政治にも深く関わることがありました。
そのメルキゼデクがなぜここに登場してくるのでしょうか。
このヘブライ人への手紙はローマ帝国の激しい権力の迫害のもとに生きたキリスト者のために書かれたものです。
ローマ皇帝はしばしば自分こそ神であることを人々に認めさせ、神のように拝むことを要求しました。
そういう政治的な権力者が同時に宗教的な権力者であるとき、どんなに恐ろしいことになるか、この手紙を書いた人、読んだ人々はよく知っていました。彼らはそこでこそ祈り願ったに違いありません。「どうか、この権力者たちが真実の神を信じることができますように。」「いや、むしろ、この権力者たちが自分たちを執り成す者でいてくれたらどんなによかったか。イエス・キリストこそそのように力ある方。キリストの支配はここにもう始まっている。」そう信じたのです。だから耐えることができたのです。
最後に旧約聖書のイザヤ書の42章の3節を読みたいと思います。「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。」
ユダヤの人々がバビロンの権力に抑え込まれていたときに、われわれを本当に解放する王は僕だとイザヤは預言をしました。「傷ついて弱り、子供の指がそれに触れてもポキンと折れるかもしれないような葦の存在に似た弱い者がいるときに、こんな者はいらないと踏みつぶす王ではなくて、その葦を立て、癒してくれる。それはむしろ自ら傷つきながら人々に仕え、仕えることによって支配する王だ。そういう王が来なければ人間の真実の世界は来ない」と預言したのです。
イエス・キリストの激しい叫びと涙の中にあった祈りと願いは、そのような大祭司であり王である支配者となるための戦いでした。このような叫びと涙を流すことのできた方はイエス・キリストお一人です。
イエス・キリストは今この礼拝の中におられます。私たちはここでキリストの叫びと涙を見たいと思います。それによって生かされている私たちであることを、感謝をもって受け入れたいと思います。
そして、私たちもイエス・キリストに従うために、愛に生きるために、叫びをあげ、涙を流したいと思います。小さな叫びであるかもしれません。僅かな涙であるかもしれません。けれども、それらはすべてイエス・キリストが喜んで受け入れてくださるものです。
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