「神の祝福の中で生きる」

               ヘブライ人への手紙7119

                                 水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所でヘブライ人への手紙の著者はアブラハムについて語っています。アブラハムはユダヤの人々の先祖と考えられている人です。

アブラハムは、旧約聖書の創世記が語っているその生涯を読むと、争いを好まない人でした。むしろ平和一筋に生きた人と考えられます。

アブラハムは自分の故郷を出て、ようやく神が約束してくださったカナンの地に到着します。しかし、そのカナンに着いたとき、自分と一緒に旅をしてきた甥のロトとその一族に対して、まず自分たちの行きたい所に行きなさいと選択の優先権を与えます。ロトは豊かな平地を選んで、そこに移りました。アブラハムはより実りの少ない所に移って、そこに自分たち一族の生活を始めました。このようなところにも、アブラハムの無欲というべき心と、無欲であるがゆえに争わないで済む姿が、よく現れていると思います。

なぜアブラハムは平和に生きることができたのでしょうか。

そこでこの手紙の著者は今日の聖書でそのアブラハムの秘密を説き明かしています。そこにメルキゼデクという人が存在することを示すのです。メルキゼデクの祝福があったからこそアブラハムの平和は揺るぎなかったというのです。

2節を読みますと、メルキゼデクという名前の説明があります。

まず、「義の王」です。メルキゼデクの「メルキ」が「王」を意味し、「ゼデク」が「義」を意味する。そこで「義の王」という意味になるというのです。

次に、「サレムの王」とあります。これはメルキゼデクがサレムという町の支配者だったということです。サレムは多くの人々によってエルサレムのことだと理解されています。そのサレムという言葉はヘブライ語の平和を意味する「シャローム」という言葉に基づくものです。メルキゼデクは義の王であると共に平和の王なのです。

義、正義は独りで誇るものではありません。他者との間に造られるものです。神との間にも正しい関わりがあり、お互い同士の間にも正しい関わりがあれば、それを義と呼ぶことができます。独りで正義を主張することはできません。ですから、義と平和もまた本来一つのものです。しかも、これが一つのものだと言いにくいところに私たちの現実があります。

例えば、小さな子供の兄弟喧嘩一つにしてもそうでしょう。兄と弟が争って取っ組み合っています。親が仲裁に入って、「どうしてそんなことをするのか」と弟をたしなめて、「お兄さんにそんな乱暴なことをしたらダメでしょう」と言うと、「だって、お兄ちゃんが悪いもの」と弟は言います。そう言われたらお兄ちゃんも黙っていません。「弟のほうが悪いんだから」と言い返します。兄弟喧嘩であっても自分のほうに正義があると言わないと争いの理由が立ちません。

大人同士でもそうです。国同士でもそうです。戦争を仕掛けるときには必ず双方が自分たちのほうに正義があると主張します。正義と平和が並び立たないのです。

この手紙が義の王にして平和の王と並べて書いたとき、何気ないことでありますけれども、それは深い私たちの願いを込めたものだと言うことができると思います。

この手紙の著者はさらに創世記が書いていないことも書いています。

3節にこうあります。「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。」

義と平和をもたらす王は同時に祭司です。神と人間の間を執り成す務めに生きる者です。神を忘れない王です。神の支配を私たちの中に生き届かせようとする王です。

そして、その王にとって、誰が父であったか、母であったか、よく分かりません。確かに創世記はそれを書いていません。書いていないままに突然登場してくるというのです。その点でメルキゼデクは神の子に似た者です。神の子そのものではありません。けれども、まるで神の子イエスに似たように神から来た者だったというのです。

1節に「このメルキゼデクは…アブラハムを出迎え、そして祝福しました」とあります。

アブラハムの平和の姿勢の根源にこの神の祝福がある、神から来た祝福があるというのです。それは神の子に似た者のしたこと。神の子イエスに似た者のしたこと。つまり、神の子イエスこそ私たち人間にそのような根源的な祝福を与えてくださる方だと語っているのです。

4節以下の言葉については、今日は一つだけ取り上げたいと思います。それは5節に出てくる「レビの子ら」という言葉です。これはレビ族のことです。

ユダヤの人々は自分たちが十二の部族から成っていると考えていました。その十二部族の中にレビ族というグループがありました。このレビの血を引いている者たちが祭司の務めに就いたのです。

旧約聖書の律法によると、レビ族以外の11の部族はそれぞれ土地を持つことができました。その土地を耕すことによって生活の糧を得たのです。しかし、レビ族の血を引いている者は土地を持つことが許されませんでした。この地上に自分の生活の糧を得る拠点を得ることを禁じられていたのです。そのようなことを捨てて神に仕えることだけに心を注いだのです。

ですから、それ以外の者たちは、このレビ族たちによって自分たちがいつも神の前に執り成されているという祝福を信じることができたと共に、それに対する感謝の意味も込めて、自分たちの収入の十分の一をレビ族の生活を支えるために持って来ました。ここにはそのようなユダヤの人々の生活の姿が書かれています。

この手紙の著者はなぜこのようなことを語っているのでしょうか。

このヘブライ人への手紙が誰に宛てて書かれたものなのかということについては昔から一つの理解がありました。それは、ここには旧約聖書の知識がないと読めないようなことがたくさん書かれていることから、おそらくユダヤの人々の中でキリスト者になった者たちのために書かれたのではないか、という理解です。

しかし、それとは違った見解もあります。丁寧に読んでみると、どうもこの手紙の著者はヘブライ語があまり堪能ではなかったようだ。むしろギリシア語のほうが達者だったようだ。この手紙の読者もローマに住む異邦人キリスト者だったのではないかというのです。

私たちは学者ではありませんから、そのようなことについて立ち入った議論をすることはできません。しかし、興味のあることです。そうであれば、なぜこの手紙の著者はこのようなことを語るのだろうかということです。

私たちの想像以上に、ユダヤ人であるかユダヤ人でないかということは当時の人々にとって大きな意味を持っていました。ユダヤ人であるということは、生まれながら既に神の祝福の中に生き続けているということです。そういう意味で系図を誇ることができたのです。父を誇り、母を誇ることができたのです。「わたしはユダヤ人だけれども、あなたがたはユダヤ人ではない。神の祝福の中に初めから生まれた者ではない」ということが言えたのです。

言われたほうの異邦人たちは、イエス・キリストを信じていても、なおどこか心もとない思いがあったかもしれません。そのときにこの手紙の著者は言うのです。「レビの祭司によって神と結びつけられた人々が誇ったとしても、そのレビの人たちもこのメルキゼデクの前には膝を屈めたアブラハムの血の流れを汲んでいる。メルクゼデクはレビ族にまさる。レビの流れを汲む祭司にまさる。そのメルキゼデクのように、イエス・キリストの祝福の中にあなたがたはあるのだ」というのです。歴史を超えた、血を超えた祝福の流れの中に置かれるのです。

そういう意味では、この手紙の著者には、あえてユダヤ人に語ろうとか、あえて異邦人に語ろうという意識はなかったかもしれません。まさにパウロが言うように、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もないのです。

だからこそ、メルキゼデクの祝福を先駆けとした主イエスの祝福が今私たちを捕らえているのです。皆さんを捕らえているのです。主イエスの祝福の中に捕らえられているのです。

ここに、この手紙の著者がメルキゼデクの話をしながら、何とかして分かってもらいたいと願っていた神の祝福の事実があります。

 

皆さん一人一人に、この祝福についての確かな思いが、どのような中にあっても、どのような苦しみ悲しみの中にあっても、保たれ続けますよう心から願うものです。