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「種蒔きと刈り入れ」
ヨハネによる福音書4章27~42節
水田 雅敏
今日は「イエスとサマリアの女」と題された箇所の後半を学びます。
この部分は伝道ということについて様々なことを示唆してくれる所です。
ここを最後まで読んでみると、この話がただ単にこのサマリアの女の救いに関わるだけではなくて、これがサマリア地方に主イエスの福音が広まるきっかけになったということが分かります。
39節に「さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた」とあります。
サマリア伝道は主イエスと一人の女との小さな対話から始まりました。この一対一の対話というのが伝道の基本です。個人的な小さな対話によって、私たちは主イエスの福音を伝えるのです。
そして、その小さな対話から大きな業が生み出されていきます。この場合も一人の女が証人となって福音がどんどんサマリアの町全体に広がっていきました。主イエスが、「神の国は、からし種のようなものだ」とおっしゃったことを思い起こします。
次に、伝道というのは伝える者自身が造り変えられることから始まるということを覚えたいと思います。
この女はもともとは井戸に水を汲みにやって来たのです。ところが、彼女はその本来の仕事を忘れ、水がめを置いていってしまいました。
28節にこうあります。「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』」
水がめを置き忘れるほど彼女はびっくりしたのです。この驚きは恐怖ではありません。喜びで心が弾んでいるのです。主イエスを伝えずにはいられないのです。
この女はもともと人目を避けて生きていた人です。ですから、暑い真っ昼間に水を汲みに来ていたのです。ところが、今やそんなことさえどうでもよくなりました。それほどまでに主イエスとの出会いが彼女を変えて、恥ずかしさをも克服させたのです。今や彼女は積極的に人々の中へ飛び込んでいきます。主イエスとの出会いが人々との隔ての壁を打ち破らせたのです。
そして、彼女は「さあ、見に来てください」と主イエスを指し示し、人々を主に出会わせようとしました。
これも大切なことです。最終的に大事なのは、「私はこのように変えられた。私はこのように生かされている」ということではなくて、「私を変えたのはこの方です。私を生かしているのはこの方です」と主イエスを指し示すことだからです。
さて、主イエスがこのサマリアの女と話しておられるところへ弟子たちが町から買い物を終えて帰って来ました。彼らは主イエスがこの女と話しておられるのを見て驚きました。当時、知らない女とむやみに話してはならなかったからです。
彼らはその現場を目撃しました。しかし、何も尋ねません。「先生、何かご用ですか。何かよほどお困りのことがあって、仕方なくこの女と話をされたのですか」とか、「先生、いったいどうなさったのです。人に見られたらどうするのですか」とか、何も尋ねないのです。
彼らはサマリアの女と対照的です。サマリアの女のほうは主イエスと出会って疑問に思っていることを何でも率直に尋ねました。それで少しずつ変えられていきました。ところが、弟子たちのほうは、心の中で不思議に思っていても、「こんなことを聞いてはいけない」とため込んでしまったのです。
この続きを読んでもそうです。弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、主イエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われました。彼らはそれを聞いて、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言いました。ここでも、それを直接、主イエスに尋ねるのではなくて、自分たちの中で悶々としていたのです。
この弟子たちはいわば常識人間の典型です。彼らは主イエスがサマリアの女と話しておられるのを見て、それが常識を超えたことであるので戸惑いました。常識の範囲内だけで考えようとするのです。
彼らは主イエスに従って旅をしていたのですが、その姿には何の喜びもないように見えます。仕方なく主イエスについて行っている感じです。
ある人が、そのような人のことを「ゆで卵的人間」と呼びました。既に固まっているので融通が利かないのです。それに対してこのサマリアの女のほうは喜びに弾んでいます。
主イエスは弟子たちにおっしゃいました。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月ある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」
「色づいて刈り入れを待っている」。これはこのあとにサマリアの人々が主イエスを受け入れていくことを予感させる言葉です。弟子たちがそのように何もしないでいる間に、彼らに代わるようにして、サマリアの女が主イエスのところから町に出て行って福音を宣べ伝える働きをしている対比が鮮やかです。
主イエスは続けてこう言われました。「既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。」
一般に種蒔きと刈り入れは一人の人によってなされます。種蒔きだけをするのではやる気がなくなってしまいます。やがて色づいて刈り入れの時が来る。それを楽しみにして種を蒔きます。
ところが、伝道の場合は必ずしもそうではありません。ここに記されていることわざの通りに「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」ということになります。
主イエスはさらに言われます。「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
これは、主イエスが種を蒔いたものを、やがて弟子たちが刈り入れる日が来るということです。そして、そこでまた弟子たちが種を蒔いたものを、その次の世代が刈り入れていきます。
時には種蒔きだけをして殉教者として死んでいく者もありました。その一番の典型が主イエスです。主イエスは一粒の麦が地の上に落ちるように死んでゆかれましたが、それがのちに実を結ぶようになっていきました。
このことは今日の教会においても忘れてはならないことです。私たちの教会が今日あるのは多くの先達の種蒔きのゆえです。その方々が種を蒔いてくださったものを、私たちが今、刈り入れているのです。そして、同時に、私たちも次の世代の人たちがやがて収穫を得ることができるように新たに種蒔きをしていかなければなりません。
刈り入れをしながら種蒔きをしていく。一つの業が刈り入れであると同時に種蒔きになっていく。それが伝道の不思議なところです。こうして種を蒔く人も刈る人も共に喜ぶということが実現するのです。
ですから、私たちは種まきの仕事をして、すぐに効果が現れなくても、意気消沈する必要はありませんし、また、効果が見えなくても、それを続けていかなければなりません。
旧約聖書のイザヤ書の52章の7節にこういう言葉が記されています。「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。」
この言葉は、福音を宣べ伝える者の働きがいかに大切であるか、いかに美しいかを語っています。そのような福音を宣べ伝える者の働きがあって、神の御業は前進するのです。
神はそのようにして大切な使命を私たちに託しておられるということを、私たちは今日改めて、心に刻みたいと思います。
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