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「イエスを迎え入れよう」
ルカによる福音書2章1~7節
水田 雅敏
クリスマス、おめでとうございます。皆さんに神の祝福がありますように。
御子イエスが誕生された出来事を語るにあたって、ルカによる福音書はまず、その時代の状況を説明しています。
1節にこうあります。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」。
この勅令は人口調査の勅令です。その目的は、一つは税の取り立てのためであり、もう一つは徴兵のためです。そこに皇帝アウグストゥスの世界支配、世界制覇の野心を見ることができます。
この世の権力にもてあそばれるかのように一組の若い夫婦、ヨセフとマリアは、登録のためにナザレから百キロ以上離れたベツレヘムに向かって旅をしなければなりませんでした。それは相当つらいものであったと想像されます。マリアは今、臨月です。しかも初めての出産です。そこには平安で落ち着いたものはありません。喜びからは程遠い状況です。
しかし、この世の力や状況によって強いられた事柄の中に、なお私たちは神の計画が進められているのを見ることができます。
神はかつて預言者イザヤを通して救い主の誕生の預言を語られました。旧約聖書のイザヤ書の9章の5節にこうあります。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」。
イザヤは、その時、こういうことも語っています。イザヤ書の9章の1節です。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。
暗闇や苦しみの時代が極まるところに大いなる光が現れると約束されたことは、今まさしく皇帝アウグストゥスの支配が強まろうとする時に、御子イエスが誕生することによって現実のこととなろうとしているのです。
私たちはここに世の支配者を超える神の支配の事実を見ることができます。暗闇がその度合いを増す時、神の地上への介入もまたその力を増してくるのです。
さらにもう一つ預言との関連で見ておきたいことは、御子イエスの誕生の地ベツレヘムに関してです。この世の権力によって強いられた地での出産も、実はそこに預言の成就があるのだというのが、聖書の告げるところです。
それは預言者ミカによって語られたものです。旧約聖書のミカ書の5章の1節にこうあります。「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る」。
表面的には、皇帝の勅令によってベツレヘムに行かざるを得なかったヨセフとマリアでしたが、しかし、そのこともまた神の計画の中に定められていたことであって、今、その成就を見ることができます。世界の片隅ベツレヘムでの出来事、小さく暗く冷たい家畜小屋の中での一人の男の子の誕生という出来事を、神はしっかりと御手の中に収めておられるのです。
次に、私たちは主イエスの生まれた場所に関して思いを巡らしたいと思います。
ベツレヘムでは人口調査の登録のために帰ってきた人々によって宿屋は一杯で、どこにもヨセフとマリアを迎え入れる場所がなく、マリアは家畜小屋で出産し、飼い葉桶の中に御子イエスを寝かせるという状況でした。
私たちはこのような御子イエスの誕生の時の様子を読みながら、「神の御子は何と惨めだったのか」とまず考えます。そして、やがて、このみすぼらしさの中に、神が私たち人間のために低く貧しくなってくださったという大きな憐れみを知ることになります。
しかし、御子イエスの誕生の状況は惨めだったと考える時、少し視点を変えて、本当に惨めなのは、御子イエスの誕生のために良い場所を提供できなかった宿屋の側、すなわち人間の側ではなかったのか、という思いを抱かせられるのではないでしょうか。つまり、私たちはここに一つのしるしを見るべきなのです。
もし私たち一人一人が、主イエスを迎え入れる場所を自分の心に、自分の魂に、自分の生活に持つことができなかったとしたら、それは、私たちの心の扉の外で戸を叩いておられる主イエスが惨めなのではなくて、主イエスを閉め出し、主イエスを迎え入れる場所を持たない私たち自身が惨めなのだということを考えてみなければならないのです。
主イエス以外のもので私たちの心が満たされ、主イエス以外のものに心を奪われている多くの人々がいます。それはそれで仕方がないと片付けてしまうのではなく、「あなたの心の中に僅かでもいいから主イエスを迎え入れる場所を設けてください」と、今、全ての人が呼びかけられているのです。そして、多くの人々にそのことが起こるようにと祈ることは、私たちの大切な務めなのです。
私たちはまた御子イエスがお生まれになった家畜小屋に一つの象徴的なものを見ることができます。そこは暗く汚れた場所、ほかの人にはできれば見せたくない、隠しておきたい場所です。しかし、御子イエスはそこを自らの宿りの場所とされました。そこからこの世における歩みを主イエスは始められました。そこから人間との触れ合いを始められたのです。このことに私たちは心を動かされます。
私たち一人一人にもそれぞれに暗い部分、隠しておきたい部分があります。人に語ることのできないほどの罪と恥との部分があります。自己嫌悪を覚えたり、そのことを考えるとゾッとしたり、身震いを覚えたりするほどの、人の目には隠しておきたい部分があります。ベツレヘムの家畜小屋に等しく、暗くて寒々としたものを私たちは抱え持っているのです。
しかし、実はその場所こそ、御子イエスを最も必要としている所なのではないでしょうか。その部分が、私たちが主イエスに真に出会うことのできる場所となるのです。主イエスはその入り口から私たち一人一人の中に入り込んでくださるのです。
私たちは、主イエスを迎え入れるのに、もっと自分の生活を美しく、もっと心も清くしなければならないと考えがちではないでしょうか。誰からも後ろ指をさされないようになってから主イエスのことを考えるようにしようと思ったりするのではないでしょうか。しかし、そうする必要はないのです。
主イエスがこの世にお生まれになるにあたって、まともな場所を与えられることもなかったにもかかわらず、神はその計画を放棄なさらずに、御子を家畜小屋の中で誕生させられました。
主イエスは今、私たちの暗さや弱さにおいて、私たちの救い主として出会おうとしておられるのです。その負の部分において、そのマイナスの部分において、主イエスは私たちの中における宿りの場を見出されるのです。そのようなものを抱えている一人一人を、主イエスは相手にされます。
そうであるならば、私たちは、主イエスの前で、自分の暗さや弱さや自分を消し去ってしまいたいと思うほどの罪を、もはや恥じる必要はないのです。「主よ、ここに来てください。この暗さの中で私に出会ってください」と叫んでよいのです。
私たちは、自分が今、満足したり、充実したり、誇らしげに思っている部分には、主イエスを迎え入れる余地はないかもしれません。しかし、逆に、自分の暗さ、弱さ、恥の部分をもって主の前に立つことができます。
そこを主イエスは住まいとして私たちの中に入り込んでくださいます。そこから主の光が、私たちの体全体、生活全体、人生全体に輝きわたります。
私たちは陰と恥との部分をもって主イエスの前に立ってよい。それを知らされるのがクリスマスなのです。
このことを心に刻んで、共に歩んでいきたいと思います。
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