「折が良くても悪くても」

                       テモテへの手紙二415

                                                    水田 雅敏

 

私たちは今、アドベントの時を過ごしています。

今日、私たちに与えられた聖書の箇所は、テモテへの第2の手紙の4章の1節から5節です。

テモテへの手紙は、この手紙の著者が彼よりもずっと若い同労者であるテモテに宛てて書いた手紙です。

この手紙のテーマの一つは、信仰の継承の問題です。この手紙が書かれた頃は、初代教会におけるキリスト者の第一世代から第二世代へとバトン・タッチがなされようとしていた時代でした。第一世代のキリスト者には第二世代のキリスト者にどうしても受け継いでもらいたい事柄がありました。それがこの手紙にも取り上げられています。

2章の8節にこうあります。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」。

イエス・キリストの何を思い起こすのでしょうか。それは、イエス・キリストが、神からの救い主としてこの世に来られ、十字架上で死に、そして死者の中から復活されたことを思い起こすことです。それはイエス・キリストの「初め」を思い起こすことです。

それと同時に、今日の聖書の4章の1節にこうあります。「生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエス」。

それは、裁き主として来られるイエス・キリストのことですから、イエス・キリストの「最後」を思うことになります。

そのようにしてイエス・キリストの初めと最後を思うことによって、今の自分のあり方、生き方を捉え直して、進むべき道を確認し、修正し、再発見するのです。

そのようにイエス・キリストに思いを集中することから次に生まれてくること、それは御言葉を宣べ伝えることです。

2節にこうあります。「御言葉を宣べ伝えなさい」。

「御言葉」とは神の言葉のことであり、それは別の言葉で言えば福音のことです。その内容、中味はイエス・キリストその方のことです。

ここでは、御言葉を宣べ伝えることは、この手紙の著者からテモテへの強い要請、あるいは命令という形をとって語られていますが、それは、人間から出て来たものではなく、イエス・キリストからの命令であり、キリストをこの世にお遣わしになった神の命令です。御言葉を宣べ伝えることは、神からの信頼と期待に満ちた、教会とキリスト者への委託なのです。

神はイエス・キリストをこの世にお遣わしになり、またキリストは御言葉の宣教者をこの世から選び出し、さらには、神の民の群れである教会をこの地上に建て、福音の宣教を委ねられました。人々を命に導く御言葉を、教会とキリスト者に委ねられたのです。

ですから、私たちはそれを委ねてくださった方に忠実でなければなりません。

コリントの信徒への第一の手紙の4章の1節から2節に次のようにあります。「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは、忠実であることです」。

忠実であるということは、イエス・キリストが語られた譬えの中の怠慢な僕のように、宝をしまい込み、隠してしまうのではなくて、その宝を生かして用いることです。それは、福音を宣べ伝えること、人々にそれを差し出していくこと、その宝の恵みに多くの人々が与ることができるようにと情熱と勇気をもって運んでいくことです。

その際、私たち自身の信仰の貧しさや確信の弱さや恥ずかしがり屋なことに目を向けていては、何も行動は起こらないでしょう。それらのことはイエス・キリストが先刻、ご承知のことです。

イエス・キリストは私たちに次のように言われるのです。「あなたがたは、あなたがた自身の信仰や言葉の貧しさに目を向けて、たじろいではならない。あなたがたは、あなたがたを遣わすわたしにこそ目を向けなさい。わたしに信頼しなさい」。

イエス・キリストは、そのように私たちを励まして、福音を人々に宣べ伝え、証しする業へとお遣わしになるのです。

それは今日の聖書の2節の言葉で言えば、「折が良くても悪くても」ということです。

私たち人間には、いつどのような時が御言葉を宣べ伝えるのに絶好の時であるか、また逆にまずい時であるかの判断は、決して容易なことではありません。時には全く逆の判断をしてしまうことさえあるでしょう。また、自分自身の心が燃える時もあれば、沈み込んで他の人に御言葉を宣べ伝えるどころではないという状況に落ち込んでしまうこともあるでしょう。そのようなことをいろいろと考えていたら、私たちは何もできなくなってしまいます。そのような私たちにこの手紙の著者は「折が良くても悪くても」、すなわちあらゆる機会に福音を証ししなさいと勧めているのです。

時には、勇気も必要であり、恥をも忍ぶ忍耐が求められることもあります。しかし、希望をもって語る時、そのような私たちの言葉に聖霊なる神が命を宿してくださいます。私たちの貧しい言葉に命を吹き込んで、生ける言葉として相手に届けてくださいます。

使徒言行録を読むと、ペトロやステファノは、自分が裁かれる法廷で、イエス・キリストこそ救い主であるとの証しをしました。また、パウロも、不利な立場の中で、イエス・キリストの復活の事実を恐れることなく人々に宣べ伝えました。折が良くても悪くても御言葉を相手に差し出す機会はあるのです。

いや、あらゆる機会をそのようなものとして用いることを、神が可能にしてくださいます。男の子を産むと天使から告げられたマリアは、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と応じました。それに対して天使は、「神にできないことは何一つない」と答えました。私たちが御言葉を語り、福音を証しする時、それを最も良い機会として用いてくださることは、神にとって不可能なことではないのです。クリスマスを待つこの時も御言葉の証しの時として用いようとするならば、神は思いがけない御業をなしてくださることでしょう。

それでは、私たちが宣べ伝えるべき御言葉とは何でしょうか。それは福音であり、イエス・キリストその方であると、先ほど述べました。

私たちはそのイエス・キリストについて、この手紙で次のように告白されているのを見ることができます。

2章の11節から13節にこうあります。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」。

ここには、イエス・キリストの生と死と復活が、私たち自身の生と死と復活に切り離しがたく結びついていることが、言い表されています。

イエス・キリストは、私たちの罪をご自身の身に担うためにこの世に来てくださり、私たちに代わって神の裁きを受けてくださいました。イエス・キリストの生と死はそのことに集約されます。しかし、それで終わらずに、神はこのキリストを死者の中から復活させられて、新しい命に移されました。そこに死の陰の中に生きる全ての人間の唯一の希望があります。この方の中にこそ、死ぬべき命を持った人間の死を超えた希望があると告白されています。御子イエス・キリストのこの世への誕生は、そのような人類の再生・新生の唯一の根拠となる出来事だったのです。

このイエス・キリストが私たちのために来てくださいました。この方が私たちに代わって死んでくださいました。この方が私たちに先駆けて復活してくださいました。この方が神の右にいて私たちを待っていてくださいます。この方を通して示され、約束されたことは、必ず果たされるのです。なぜなら、この方は決してご自身を偽ることをなさらない真実なお方だからです。

この方の前にあって、私たち人間は、逆にあまりにも不真実であり、不忠実であり、不従順です。しかし、それにもかかわらず、イエス・キリストは私たちの不真実・不忠実・不従順のただ中に入り込んで来てくださって、私たちを捕らえてくださり、「わたしに全てを委ねよ」と声をかけてくださいます。それは今も一人一人において起こっていることです。

イエス・キリストが私たちに近づいてくださることは、私たちの朽ちゆく命がキリストの復活の命に変えられていくということです。私たちの弱さをイエス・キリストの憐れみが包み込み、新しい命に生きる者としてくださるのです。それは既に私たちにおいて始まっています。

そのことを真に知ることができる時、私たちはこの世の価値観から解き放たれ、自由にされます。それは自分を他者のために用いることができる者とさせます。またそれは、私たちをどんな困難の中でも耐えることができ、待つことができ、望みを持つことができる者とさせます。自分の命を大切にし、イエス・キリストのために、それゆえに他の人々のために用いることができる者となるのです。

私たちは自分自身の様々な弱さを恥じる必要はありません。私たちが神を造り出しイエス・キリストを造り出したのではないのですから、私たちの弱さや貧しさがキリストを消し去らせてしまうことはないのです。

 

私たちはむしろ、神が御子イエス・キリストをこの私のために送ってくださったことに目を向け、その神のなさることに神の愛と力とを見出して、神の御業なるキリストを宣べ伝えることに力を注ぐ者でありたいと思います。私たちの小さな業を神は用いて、福音に生きる者を次々に生み出してくださるのです。アドベントとはそのような志を新たにさせられる時なのです。