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「神の栄光のために」
ヨハネによる福音書11章1~16節
水田 雅敏
今日からヨハネによる福音書の11章に入ります。
この11章にはラザロの復活の出来事が記されています。今日はその始めの部分を学びます。
1節にこうあります。「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。」
エルサレムの町の近くにベタニアという村がありました。そこにマルタとマリアの姉妹が住んでいました。この二人にラザロという兄弟がいました。兄であったのか弟であったのかは分かりません。愛し合っていた兄弟姉妹のようです。
5節に「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とあるように、主イエスもこの三人を愛しておられました。エルサレムへ行く時はいつも彼らの家から出かけておられたようです。
そのラザロが病気になりました。しかも、かなり重い病気、命に関わる病気でした。そこでマルタとマリアは主イエスのもとに使いを送り、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせました。
しかし、主イエスはすぐには動かれませんでした。
おそらく弟子たちはホッとしたと思います。というのは、エルサレムにおいて主イエスはユダヤ人たちから命を狙われていたからです。
ところが、二日経ってから、主イエスは突然、「ユダヤに行こう」と言い出されました。ユダヤというのはエルサレムやベタニアのある所です。
弟子たちはびっくりして、「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」と言いました。
彼らは主イエスがすぐに出かけられなかったのは、ユダヤ人を警戒して避けるためだと思っていたのですが、それは間違いでした。というのは、主イエスが二日間、待機しておられる間に、ラザロが死んでしまうからです。
マルタとマリアの知らせを聞いた時、主イエスは「この病気は死で終わるものではない」と言われました。もちろん、ラザロの病気を甘く見ておられたわけではありません。死ぬほどの病気であることは知っておられました。
では、「この病気は死で終わるものではない」とはどういう意味だったのでしょうか。
それは「この病気は死で終わる。しかし、そこで終わらない」ということです。「ラザロは死んでも、それで終わりではない」ということです。
それはたった一つの理由によります。主イエスがそこにいてくださるからです。「わたしは、復活であり、命である」と言われる主がそこにいてくださるからです。それ以外に理由はありません。
4節の「神の子がそれによって栄光を受けるのである」というのはそういうことです。
私たち人間の可能性が全て閉じられたところで、神の可能性が始まるのです。
旧約聖書の創世記にアブラハムとサラの物語があります。
アブラハムとサラの夫婦には星の数のような子孫が与えられると約束されているのに、いつまで待っても子供が与えられません。アブラハムは99歳、サラは89歳です。もう人間的な可能性は尽きています。ですから、「来年の今頃、男の子が生まれている」との神の約束を聞いた時、サラはひそかに笑いました。「そんことあり得ない」と思ったのです。
しかし、そのサラに神はおっしゃいました。「なぜ、笑ったのか。なぜ、年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。わたしに不可能なことがあろうか」。そして一年後、約束通りアブラハムとサラの間に男の子が与えられたのです。
「神に不可能なことがあろうか」。これは聖書全体を貫いている言葉です。
ヨハネによる福音書の2章にはカナでの婚礼の話があります。
母のマリアは息子のイエスに向かって「ぶどう酒がなくなりました」と訴えるのですが、主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言われました。見すると、主イエスはマリアの訴えを退けたように見えます。しかし、そうではありません。主は、より良い時と、より良い形を準備しておられたのです。
私たちの祈りは聞かれるのです。いや、既に聞かれているのです。
ただ、神は時を延ばされることがあります。最もふさわしい時と最もふさわしい形をお選びになるためです。それは神の栄光が現れるためです。もはや、神の働き、主イエスの働き以外の何ものでもないことを知ることによって、私たちが神の栄光を褒めたたえるためです。
さて、今日の聖書の11節で、主イエスは弟子たちに向かってこう言われました。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
主イエスは「わたしの友」と言わないで、「わたしたちの友」と言われました。ユダヤ人たちを恐れて動こうとしない弟子たちを突き動かして、ご自分の働きに巻き込もうとされたのです。
ここには温度差があります。主イエスが熱くなっておられるのに、弟子たちは冷めている。主イエスがご自分の働きへと召そうとしておられるのに、弟子たちは煮え切らずグズグズしています。
その時、弟子の一人のトマスがこう言いました。16節です。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」。
トマスは主イエスと弟子たちのやり取りを見ていて、居ても立ってもいられなくなったのでしょう。「先生が、『ユダヤに行こう』とおっしゃっているのに何をグズグズしているんだ。先生が死を覚悟しておられるのだから、われわれも一緒に死のうではないか」というのです。
このトマスという人は面白い人物です。ちょっと短絡的なところがありますが、ストレートで、分からないことは分からないと言う憎めない性格の人です。主イエスが復活された時も、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、信じない」と言いました。
しかし、この時のトマスは少しヒートアップし過ぎたようです。彼はカーッとなって、自分の師匠である主イエスを追い越してしまいました。
私たちが主イエスの弟子として歩むこと、それは「わが道を行く」ということではありません。伝道とは、あくまで主イエスが先に立ち、それに私たちが従うことです。主イエスが召しておられるのに、私たちがそれに応じなければ伝道になりませんし、また、私たちの思いが主に先立って熱くなるだけでは伝道にはなりません。
しかし、このトマスの熱意は、決して退けられたわけではありませんでした。伝説によると、トマスはのちにインドまで伝道に行ったと伝えられています。それが事実であるとすれば、このトマスの熱意は、主イエスにしっかりと覚えられていて、彼の願いを遥かに超えて実を結んでいったと言えるでしょう。
私たちも主イエスという内なる光を携えて、何が神の御心であるかを祈り求めながら、伝道の業に励みたいと思います。主の光が私たちに進むべき道を照らし、導いてくださいます。その光を見つめながら、勇気をもって歩んでいきたいと思います。
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