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「身を屈める主イエス」
ヨハネによる福音書13章1~17節
水田 雅敏
今日からヨハネによる福音書の13章に入ります。
1節にこうあります。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
主イエスはいよいよその「時」が来たことを悟られました。それは神の栄光を現す時です。すなわち、主イエスが一粒の麦として死なれる十字架の時です。
その「時」を悟られた主イエスは、弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれました。「この上なく」、これは口語訳聖書では「最後まで」と訳されています。「どこまでも」、「徹底的に」ということです。究極の愛の姿です。
この弟子たちはこれから主イエスのもとから去ってしまいます。まず、この直後にイスカリオテのユダが去ります。そして、一人消え、二人消え、最後には一番弟子のペトロも去ります。ペトロは「ほかの人はどうあれ、自分はどこまでもあなたに従います」と宣言した弟子です。その彼も去ってしまうのです。人間の愛には限界があることを思わされます。
しかし、主イエスの愛は違っていました。「この上なく」「最後まで」愛し抜かれたのです。
主イエスは食事の席で突然立ち上がると、上着を脱いで、手ぬぐいを腰にまとわれました。そして、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、その足を一つ一つ丁寧に拭かれました。
主イエスが最初の弟子の足を洗われた時、その弟子がどういう反応をしたのか、聖書には書いてありません。何をなさっているのか訳が分からず、唖然としていたのではないでしょうか。
当時の習慣としては、誰かが家に入って来た時、その人の足を洗うのは奴隷の仕事でした。しかし今、自分たちの先生である主イエスが自分たちの目の前に屈み込んで足を洗い、それを手ぬぐいで拭かれるのです。しかも、この時は食事の最中です。家に到着した時ではありません。「今頃になって。しかも先生が。いったいこれはどうしたことか」、弟子たちはそのような気持ちだったのではないでしょうか。
主イエスがペトロのところまで来ると、彼は「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました。彼は謙遜の気持ちから「洗わないでください」と言ったのかもしれませんが、それは「謙遜」という名の傲慢でしょう。なぜなら、自分の足は主イエスに洗っていただく必要がない、ということを意味しているからです。
私たちはそれぞれ、自分の醜い部分、汚い部分、人の目に触れさせたくない部分を誰でも持っているのではないでしょうか。そして、その部分は自分で何とかしたいと考えています。しかし、それは「自分のことは自分で解決できる」という考えに基づいているものです。信仰を持つことと持たないことの違いはその点にあると言うことができるのではないでしょうか。
森有正という作家がこういうことを語っています。「人間というものは、どうしても、人に知らせることのできない心の一隅を持っている。醜い考えがあるし、秘密の考えがある。また、ひそかな欲望があるし、恥がある。どうも他人には知らせることができない心の一隅というものがある。そこにしか神さまにお目にかかる場所は人間にはないのである。人間が誰はばからずしゃべることのできる観念や思想や道徳やそういう所で、誰も神さまに会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また、恥じている、そこでしか人間は神さまに会うことはできない」。
主イエスと私たちの交わりはそこでこそ最も深い関係に入るということを、この言葉はよく示していると思います。
教会の交わりもこうしたことを踏まえて考えなければならないでしょう。教会に初めて来た人は、教会というところは何か清い人の集まり、聖人の集まりというふうに思うかもしれません。教会に来ている私たち自身も、恥ずかしい部分は隠して、よいところだけを見せて、表面的な交わりをしているということもあるかもしれません。しかし、それでは偽善的になりがちです。
教会というところはむしろ罪人の集まりです。宗教改革者のルターの言葉を用いて言うならば「赦された罪人」の集まりです。私たちは罪を持ったままで主イエスの前に出ることが許されているのです。そして、その私たちを主イエスは受け入れてくださいます。教会とはそういう場所なのです。
この時、主イエスは弟子たちの前に身を屈められました。これは主イエスの生涯全体を象徴する姿でもあります。
フィリピの信徒への手紙にこういう言葉があります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
この言葉は弟子たちの足を洗う主イエスの姿に通じるものです。主イエスは人間の姿になるだけではなく僕の姿にまでなられたのです。同じ目線になることよりも、さらにもう一段低く身を屈められたのです。下から仕える姿です。
主イエスはペトロにこうおっしゃいました。7節です。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」。
「後で、分かるようになる」とはどういうことでしょうか。
主イエスは弟子たちの足を洗ったあとでこう言われました。14節です。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
「後で」とは、そのことを示していると言うこともできるかもしれません。
けれども、弟子たちはその言葉を聞いてもまだ分かりませんでした。ですから、「後で、分かるようになる」というのは、もっともっとずっと先、主イエスの十字架と復活のあとのことでしょう。
今はスピードが重んじられ、速攻でどんどんやっていくような時代です。頭の回転の早い人が頭のいい人とされます。しかし、本当に大事なことというのは時間をかけないと分からないものではないでしょうか。
聖書の言葉というのもそういう面があります。最初に聞いた時にはどういうことか分からなかったけれども、年を重ねていくうちにだんだん分かってくるということがあります。あるいは、それなりに分かっていたつもりでも、もっと深い意味があったことを知る、身をもって知るということもあります。
ペトロは主イエスの言葉を聞いたあとでこう言いました。9節です。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
主イエスがせっかく足を洗ってくださるのであれば、ついでに手も頭も洗っていただきたいというのです。少しコミカルな、ペトロらしい応答です。
しかし、主イエスは「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と言われました。
宗教改革者のカルヴァンは「この主イエスの言葉は私たちの洗礼と聖餐の関係を象徴している」と言いました。
洗礼というのは、一生において一回限りで、生涯有効なものです。「自分が洗礼を受けた時には十分理解していなかったから、もう一回、洗礼を受け直して、キリスト者としてやり直したい」と思われる方もあるかもしれませんが、そうする必要はないのです。私たちの思いに関係なく、洗礼は一度限りでずっと有効なのです。それで足りないならば、結局、何度でも洗礼を受け直さなければならなくなるでしょう。
信仰を刷新して新しくなるというのは、むしろ聖餐式の役割です。洗礼によって全身を洗われたあとで、その都度その都度、主イエスに足を洗っていただくように、私たちは聖餐によっていつも新たに主をお迎えして歩み始めるのです。
教会は、主イエスに倣って、お互いに受け入れ合い、仕え合いながら歩んでいく共同体です。
16節で主イエスは言われました。「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」
大きなこと、主イエス以上のことが求められているわけではありません。お互いに受け入れ合い、仕え合うことは、主の弟子の道であり、そこに私たちのまことの幸いがあるのです。
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