「まことのぶどうの木」

                       ヨハネによる福音書15110

                                                                                                               水田 雅敏

 

「わたしはまことのぶどうの木。わたしの父は農夫である」。今日の聖書の箇所はこの言葉で始まります。

「わたしはまことのぶどうの木」、「わたしの父は農夫」、「あなたがたはその枝」。主イエスと神と私たちキリスト者、この三者の関係が譬えをもって語られています。

ぶどうの木はパレスチナ地方では至るところにありましたから、人々はこの主イエスの譬えを身近なものとして受け止めたことでしょう。

ぶどうの木の譬えは旧約聖書にも出てきます。

例えば、詩編の80編の9節から12節にこうあります。「あなたはぶどうの木をエジプトから移し 多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせ この木は地に広がりました。その陰は山々を覆い 枝は神々しい杉をも覆いました。あなたは大枝を海にまで 若枝を大河にまで届かせられました。」

ここでは、神がイスラエルの民になさった業がぶどうの木の栽培に譬えられています。

そのあとの19節を見ると、こういう言葉があります。「わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。」

この言葉は今日の主イエスの言葉を彷彿させるものでしょう。

もう一つぶどう畑の箇所としてイザヤ書の5章があります。その1節から2節にこうあります。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」

神がイスラエルの民をいかに愛されたかが伝わってくるようです。ところが、そのイスラエルの民が神の期待に反して酸っぱいぶどうになってしまったというのです。

今日の聖書の2節にも「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」という警告の言葉があります。

しかし、それに続けて主イエスは慰めと励ましの言葉を語っておられます。「しかし、実を結ぶ者はみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」

これは、あの洗足の出来事の中で語られた「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」という言葉を思い起こさせるものです。

私たちは良い実を結ぶように自分で一生懸命清くならなければならないと思うかもしれません。そうならなければ自分は取り除かれるのだろうかと不安になるかもしれません。しかし、主イエスは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言ってくださるのです。主イエスにある者、主につながっている者は、それだけで既に清くされているのです。

しかも、「いよいよ豊かに実を結ぶ」と主イエスは言われます。

ヘブライ人への手紙の中に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という言葉があります。

信仰とは自分の人生が豊かに実を結ぶことを確信することです。神が豊かに実を結ばせてくださることを信じて生きるのです。そのことを主イエスは私たちに教えてくださっているのです。

さて、5節の「あなたがたはその枝である」という宣言と4節の「わたしにつながっていなさい」という命令は、一見すると矛盾するように思えます。枝であれば木につながっているのは当然だからです。しかし、その表現は信仰の本質をついていると思います。

4節に「わたしもあなたがたにつながっている」とあります。

主イエスは、まことのぶどうの木とし私たちと関係を持ち、一人一人をその枝として結び付けてくださいます。自ら積極的に結び付けてくださいます。それは確かな事実です。

しかし、全ての人がそれを受け入れるわけではありません。ある人は、それを見失って離れてしまいます。その人自身が主イエスに結びつけられている事実を認めなければ、実際には主から離れているのと同じ状態になってしまいます。「従いなさい」という呼びかけに対して、「主よ、あなたについて行きます」という応答がなければ、「信じた」ということにはならないのです。

信仰生活が長くなると、私はもう立派なキリスト者だから、これで独り立ちできると思うことがあるかもしれません。一般社会ではそういうこともあるでしょう。「もう師匠の世話にならなくても大丈夫です」。ところが、信仰の世界では、それはあり得ません。師匠であるお方から離れてしまっては、もはや信仰とは言えないのです。ですから、私たちの信仰生活には卒業ということはありません。一生、ある意味で求道者であり続けるのです。私たちはしばしばそれを見失って忘れてしまいますが、いつもそこへ立ち帰っていくということが促されているのです。

主イエスは続けてこう言われました。7節です。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」

これはこれまでの所にも出てきました。14章の13節です。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」。

マタイによる福音書にもこういう言葉があります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。」

私たちはそういう言葉を聞きながら、本当にそうかな、必ずしもそうはならないのではないかという思いを持つのではないでしょうか。

「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」というのは、私たちが求めているものがそのまま与えられるということではありません。主イエスこそが私たちに本当に何が必要であるかをご存じであって、私たちが望むものとは違った形で、あるいはそれを超えた形で与えてくださることが、しばしばあります。

また、私たちが望んでいる時に与えられるとも限りません。主イエスが時を延ばされて、違った時に与えられるということもあります。

主イエスは最もふさわしい時に最もふさわしい形でお与えになるのです。

「わたしの名によって願うことは、何でも」とか、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」という条件付きの表現は、どんなわがままな願いでも、全て望む通りに適えられるということではないことを示しています。その奥にある思いは何であるか、本当は何を求めているのか、主イエスはそれを私たちよりも一つ高い次元で受け止めてくださって、祈りに応えてくださるのです。そうであってこそ私たちのまことの救い主であると思います。

主イエスはさらに続けられます。9節から10節です。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

この言葉は私たちに二つのことを指し示しています。

一つは、私たちが主イエスの愛を受けて生きているということをいつも思い起こす、ということです。主イエスこそが愛であることを忘れないようにする、ということです。それが「わたしの愛にとどまりなさい」ということの第一の意味です。

もう一つは、私たちもその愛に生きる、ということです。主イエスが示してくださったその愛を私たちも生きる、私たちも実践する、ということです。

それがまことのぶどうの木につながる枝として私たちに求められていることです。

 

私たちは、これらの御言葉を心に刻んで、この週、与えられている場へと出かけて行きたいと思います。